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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(249)

2025年9月17日


外部の人と会うことが許されるようになると、ずいぶん面会人があった。一面識もない人までやってきた。皆、我々の勇気を羨ましい、と言っていた。

面会は、裁判所を通して許可を貰うのだが、ワシが別の用事で裁判所に行った時、職員が、その申請書類が、こんなに(右手を額の辺りまで上げて)ある、と驚いていた。

日本から相撲使節の一行が来た時も、面会にきてくれた。ワシが拘置所の所長に、特行隊員にも会わせてやってくれ…と頼むと、気持ち良く承諾、所長室を使わせてくれた。

行司は、ワシに飛びついてきた。親方は『君たちこそ真の日本人だ』と…。

アデマールの奥さんが、見舞いにきてくれ、

『あなた方は、こんな所に居るべき人ではない』

と…。

決行者たちの裁判が始まった。弁護士は官選だったが、一流の弁護士が自分から買って出てくれ、法廷では日本精神というものを熱心に説いてくれたそうだ。

その裁判では、決行者たちは皆、襲撃は自分で決め自分でやったと証言した。ポルトガル語が解らないので、その部分だけ、予め練習して行く者もいた。

判決が出た。

刑期は長い者もいたが、当人は、

『俺は三十年だってよう…』

と半ば面白がっていた。

バストスやツッパンで事件を起こした山本悟や加藤幸平たちは、向こうへ戻され裁判を受けたが、やはり、そうであった、と聞いている」

この法廷では、日高も山下も自分のやったことは総て正直に話した。が、小笠原亀五郎(洗濯店店主)ら協力者については「自分たちが、そこで働いていたに過ぎない」と証言した。

臣道連盟との関係は、事実通り完全に否定した。

日高は懲役二十九年の刑だった。

山下は野村襲撃では拳銃が不発、脇山襲撃では手を下さなかったわけだが、三十二年数カ月の判決を受けた。本人は「皆でヤッタのだから同じこと」と割り切る。

小笠原ら協力者の中には、逮捕され留・拘置された者、アンシエッタへ流された者もいたが、誰も起訴されなかった。

以下、前章で記したことだが、やはり一九五〇年、臣連幹部十名は、裁判所の予審で不起訴となった。この場合の不起訴とは、検察の起訴が退けられることを意味する。

二年後、その他四百数十名の戦勝派(殆どが臣道連盟員)も同じことになった。

しかし、ここで不可思議なことが起こっている。

いずれもポルトガル語の新聞が報道した形跡がないのである。

襲撃事件が次々発生していた時期のポ語新聞を見ると、その報道ぶりは洪水の様である。

が、右の不起訴決定の時には、それが起こっていない。

邦字新聞は、連続襲撃事件に関してはポ語新聞の記事を翻訳して使用していた。ところが、何も書いていない。ということは、ポ語新聞が記事にしなかったということにもなる。

邦字新聞は、もっと注意を払って、自身で取材すべきであったが、それをしていない。

邦人社会の移民史研究家もそうあるべきだったが、同じである。

ために、連続襲撃事件は、その真相を、誰もが知らぬまま終わってしまっている。

これが間違った通説・認識派史観を生んだわけで、その重要性は巨大である。計り知れない。

しかし、ポ語新聞が報道しなかったのは、何故だろうか?

それを判断する材料は、今のところ無い。

あるいは、記者たちが「法廷の決定が、自分たちが書いたことと真逆である」ことに困って無関心を装った…と推定できなくもない。が、何か別の理由があったのかもしれない。

ともかく謎である。


放置・黙殺された数千人の被害


その謎の他にも、大きな問題が残された。以下の様な。━━

DOPSを中心とする州警察は、既述の様に、数千人を狩り込んだ。狩り込まれた人々は辱め、虐待、拷問、理不尽な取調べを受けた。その被害の度合は、人によって違っていたが、拷問の後遺症で苦しみ続けた人も少なくなかった。死者も出た。

ところが、裁判所が起訴を受け付け法廷を開いたのは、襲撃決行者に関してだけであった。

これは、それ以外の数千人が冤罪であったことを意味する。

しかるに、警察やその上部機関が非を認め、何らかの補償措置をとったという記録は無い。

冤罪であった事実が世に知らされることもなかった。(つづく)


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