書評=不完全な言葉の連なりに宿る人生=どの言葉で生まれ、どれで死ぬのか
一世が話す古風な日本語、その子らが操るポ語(ポルトガル語)、そしてその両者が衝突し、融合して生まれた「コロニア語」。複数の言葉の狭間に身を置くことは、決してスマートな「バイリンガル」の物語ではない。それは常に、自己の輪郭が言語の壁に削られ、あるいは拡張される、泥臭くも切実な生存の営みだ。
山本冴里(さえり)編『複数の言語で生きて死ぬ――人生物語編』(くろしお出版、2025年9月)は、そんな「言葉と人生」の不可分な関係を、精緻なインタビューを通して浮き彫りにした一冊だ。
本書が対象とするのはブラジル、パラグアイ、日本など、国境を越えた移動の中で複数の言語と格闘してきた人々のライフヒストリーだ。第3章には、松田真希子さん(東京都立大学教員)によるアチバイアで花作りをする杉野孝(たかし)さんのインタビューも掲載されている。
ブラジル在住者の視点から本書を読めば、登場人物たちが吐露する「言葉の欠落感」が、あまりにも生々しく胸に迫る。移住は「それまで当たり前に使っていた言葉」を奪う。家庭内の日本語と一般社会のポルトガル語の乖離に苦しむ。本書に登場するある女性は、感情を吐き出そうとする際、どちらの言語を使っても「完全には言い尽くせない」もどかしさを抱えると告白する。言葉が思考を規定するならば、複数の言語の間で揺れることは、自己そのものが断片化していくような危うさを伴う。
しかし、本書の真骨頂は、その困難を「悲劇」として終わらせない点にある。編者の山本氏は、単なる言語能力の多寡を測るのではなく、人生において、言葉がいかに「編み直されてきたか」を丁寧に記述する。
印象的なのは、加齢や死を目前にした人々の言葉だ。人生の終盤において、どの言語で自らの歩みを振り返り、どの言語で最後の一息を吐くのか。
1世が口にする日本語とポ語が混然一体となった言葉。それは、正統な日本語でもなければ、流麗なポルトガル語でもない。しかし、その「混じり合い」こそが、数十年におよぶブラジルの地での開拓や労働、子育てを生き抜いてきた証しであり、その人だけの唯一無二の「母語」となっている。
ブラジル社会で日系人は「勤勉な成功者」というステレオタイプで語られがちだ。だが、その内面には、日本語を失い、ポルトガル語を獲得し直す過程で生じた深い空隙がある。本書は、その空隙に光を当て、沈黙の中に埋もれていた「声」を掬い上げる。
日系社会の世代交代が進み、日本語が「生活の言葉」から「継承される文化」へと変容し、忘れ去られつつある今、本書が突きつける問いは重い。私たちは、どのような言葉で生きて、どのような言葉で死んでいくのか。
一冊を読み終えた時、窓の外から聞こえてくるサンパウロの喧騒が、少し違った響きを持って聞こえてくる。不完全な言葉の連なりの中にこそ、人間が生きるための真実が宿っている。








