ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(357)
通貨流通量を激減させ、物価の上昇を押さえ込もうとしたわけである。(通貨の単位は、この時、クルゼイロに戻した)
インフレは、これでホンの一時期、上昇を止めた。しかし直ぐぶり返してしまう。
余りにも非現実的な方法であった上、預金封鎖が疎漏過ぎた。封鎖破りの穴がアチコチに空いており、そこから大量の預金が逃げだしたのである。
国債の増発率も、ホンの一時期ゼロとなったが、すぐ急上昇を続けた。
この年のインフレ率は、ゼッツリオ・ヴァルガス財団発表の国内総合物価指数では二、七四〇㌫という誰もが悶絶しそうな数字となった。
もっとも、インフレに関しては、アチコチから幾種類もの数字が発表され、それが互いに違っていた。
正確に測定することすら出来なくなっていたのである。
経済活動は無茶苦茶になり、未曾有の大不況が発生した。同年の成長率はマイナス四㌫とも五㌫とも記録されている。これも発表機関により数字が異なった。
この拙劣な政策の影響をモロに受けたのが農業界で、消費者の購買力の低下で、バタタ、蔬菜など近郊型農産物の採算割れは、さらに酷いものとなった。
国際相場が基準になる大豆など奥地型農産物も、為替レートが低く押さえられたままであったため、同様だった。
コロニアでは、救いを求めての日本への脱出=出稼ぎ=が急増、サンパウロ日本総領事館では、ビザ発給を求める人々が、来る日も来る日も長蛇の列を作った。
農業界やその周辺の人々が多かった。
発給件数は、一九九〇年は六万件を越した。
(ビザは、他の領事館でも発給していたから、ブラジル全体ではもっと多かった)
なお、同年、サンパウロ人文科学研究所は、日系人口を一二〇万と発表している。
連邦政府は翌九一年に入り、第二次コーロル・プランを発表したが、大勢を挽回することはできず、五月、ゼーリアは失脚した。
この年、企業の倒産が激増、失業率はうなぎ登りとなった。
日本への出稼ぎも減らなかった。同年の総領事館のビザ発給は、前年に引き続き六万を越した。
九二年。コーロルは経済政策どころではなくなった。自身のスキャンダルが発覚したのである。
十二月、辞任。
副大統領イタマールが後継。
コーロルの政策の中には、国有企業の民営化その他、一部から評価されるものもあった。が、総合的に見れば、国民の期待を大きく裏切った。
要するに、幻想は幻想でしかなかったのだ。
コロニアの出稼ぎは、以後、減少傾向を辿ったが、それでも、サンパウロ総領事館のビザ発給は、この年、四万件を数えた。
同年までの出稼ぎの累計は、ブラジル全体で二〇万人と概算された。
さらに「これからは一世だけでなく二、三世も、日本に住み着くだろう」と観測される様になっていた。
完全にブレーキが利かなくなった経済・治安の狂乱を観れば、誰でも、そう思ったであろう。
コロニアは知らなかった!
コロニアに奇妙な時間が流れていた。
その城であるコチア、スールそして南銀までが、そう遠くない時期に、いずれも「落ちる!」などと予想する人間は、どこにも居なかったのである。
これは、次の様な理由によろう。
当時、ブラジルはカオスと呼ばれる有史以来の混沌たる無秩序状態の中にあり、非日系の著名な大企業も、多くが危機に陥っていた。
特に農業界は酷かった。組合など、経営が順調であったら、その方がおかしいくらいだった。
従ってコチアやスールに関する芳しからぬ噂を耳にしても、誰も「時節柄、当然そうだろう…」くらいに聞き流していた。
コロニアには「コチアはブラジル最大、ラ米最大のマンモス組合」「スールは、堅実経営の鑑」という素朴な思い込みがあった。
潰れるとすれば、まず他の非日系の組合が、先に、そうなる筈だった。
南銀の場合は…これは、銀行はどこも、この時期、空前の金利狂騰の中で、高収益をあげており、そのことは一般によく知られていた。
理事会、愕然!
コチアでは、新執行理事会が、発足後、外部の会計事務所に依頼、財務の洗い直しを行っていた。
結果は危惧した以上の劣悪さであった。
しかも一億㌦以上の粉飾が発見された。その多くが、組合員に対する焦げ付き債権であった。
理事の中には、改選以前もその職に在った人も居たが、殆どがそのことを知らなかった。
粉飾は前専務の小川が独断でやったことであった。(財務部門の幹部職員が手伝っていたであろうが…)
理事会は、愕然とした。が、これは極秘とされた。彼らは未だ「なんとかなる」と思っていたのである。(つづく)









