ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(359)
この内アサイの紡績工場関係の負債は前記の様に殆どホット・マネーであり、金利によって一九八九年末に一億㌦に膨張した後も増え続けていた。
(なお、本稿では、ホット・マネーという言葉を「短期・高利の資金」という意味で使用している)
その間、工場を一億で売りに出したこともある。が、現れた買い手の指し値は四、〇〇〇万であった。
これで売れば、差額の六、〇〇〇万は負債として、そのまま残り、利子によって元の一億に戻るのに、時間はかからない。売却は見送られた。
後に七、〇〇〇万へ値下げして再度売りに出したが、買い手はつかなかった。
繊維業界は、国際的にも不況下にあった。
工場は(組合員が綿を工場に売ることを拒否したため)外部から綿を買って操業を開始した。が、年間売上げは一、五〇〇万㌦程度の見込みであった。利益は出ても、負債の金利増には、遠く及ばなかった。
組合の従業員の解雇も進められていた。従業員はこの頃一万〇、八〇〇人ほどになっていたが、以後三年で二割ほど減らす。内、日系人の多くは日本へ出稼ぎに行った。管理職だった人々もいた。
一九九〇年末、コチアの銀行債務の残高は四億一、〇〇〇万㌦、その内ホット・マネーは二億二、〇〇〇万と半分を越していた。
もはや癌細胞といえた。激しい勢いで全身に転移中の…。
一方、組合員に対する債権は一億六、〇〇〇万以上に増えていた。
焦げ付き分は公表さらなかったが、大半がそうであるらしかった。
詳細を知る役職員から観れば、ホット・マネーの負債と焦げ付き債権は、組合の死を直感させる恐怖の対象となっていた。
この九〇年末の決算書では、コチア産組史上、初の赤字が計上された。金額は九〇万㌦ほどであったが、実際は、勿論、桁違いの額であった。
つまり理事会は、何カ月か前に知り驚き呆れた小川のやった粉飾を、自分たちも繰り返したのである。
同時期、スール・ブラジルも状況悪化は変わらなかった。事業量は販売・購買とも依然、減少一途だった。
一九九〇年末、自己資本比率は二〇㌫近くまで落ちていた。対銀行債務は一、五〇〇万㌦に増えており、殆どがホット・マネーだった。
理事会は、増資や資産の売却で、それを減らそうと必死になっていた。
南銀も最後の創立記念式典
一九九〇年十月。南米銀行は創立五十周年を祝った。その折のプログラムを見ると。──
一日。文化四団体と慈善八団体へ寄付金贈呈。謝恩・慰霊ミサ。
十二日。朝、新銀行本部ビル定礎式。
午後、サンパウロ一の豪華ホテル=マクソード・プラザ=で記念式典。夜、カクテル・パーテー。
式典とパーテーには、多くの招待客が出席した。日本からの(合弁相手の)富士銀行、安田火災などの役員、ブラジルの中銀や銀行協会の代表者の顔もあった。
式典の席上、橘富士雄会長が、メッセージを読み上げた。その中に、次のような部分があった。
「…(略)…今ここに波瀾と数奇に富んだ南米銀行の歴史に、この輝かしき一頁を加えるに当たり…(略)…その生い立ちから直接かかわったものの一人として、一入の感慨を禁じ得ず、宛ら一場の夢の如く胸に熱きものが湧くをとどめることができません…(略)…南米銀行が創立に当たって掲げましたスローガンは『コロニアに生まれ、コロニアに育ち、コロニアと共に発展する銀行』で、この炬火は護り通されてきました…(略)…これらの精神は、次代の群像に色褪せることなく受け継がれて行くものと確信し、南米銀行の名にふさわしく南米の大地に立脚し、世界に向かって天翔る日が必ずくることを信じて疑いません…(略)…今日この日を、当行百周年に向かっての大いなる第一歩とし、覚悟も新に…(略)…」
事業の先行きを見通すということが、いかに難しいか…ということであろう。日系社会の代表的存在と目され、常に核心を突くその判断力が高く評価されていた橘であったが、自身が経営する銀行については、結果から観れば盲目同然であった。
右の言葉は、十年を待たず根底から覆される。南銀には百周年はおろか、六十周年もなかったのである。創立記念式典は、この五十周年が最後となった。
橘が信じて疑わなかった「天翔る日」は来なかったのである。
詳しくは次章で記すことになる。
「揚助を斬る!」
翌九一年三月、南銀で、橘会長が邦字紙の記者を集めて、役員改選の内示を行った。
自らは経営審議会の名誉会長に退き、後任は吉田揚助(現取締役会社長)、取締役会の社長は伝田耕平(同副社長)、副社長は倉持紀(同専務)…という内容であった。
経営審議会は、取締役会の上部組織で、会長は常勤、他のメンバーは非常勤であった。(つづく)









