ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(358)
なんとかするために、小川の下で作成された新事業プロジェクト(前章参照)の内、未着手分は、すべて中止した。
大型物流センター、チェーン式のスーパー・マーケット、リオ州マジェーの蔬菜団地…その他である。
銀行や病院などは吹っ飛んだ。
進行中のプロジェクトを放棄するようなことまでやった。例えばバイア州のリアション・ダス・ネーベス営農団地である。
ここは、前章で記した様に発足早々から崩れ始めていた。が、それでも九〇年当時、二〇人余が営農していた。
ところが、同年下半期、組合本部が突如、入植者に対する九〇/九一農年用の資材の前貸しを停止すると通告した。事実上の営農中止指令である。(コチアの組合員は、資材は組合から前借りして営農していた)
しかし、これ以前、本部は「種蒔き用の整地を進めるよう」指導していた。その整地終了後、方針を一転させたのである。
入植者は憤激したが、どうにもならなかった。その多くが整地済みの九、〇〇〇㌶を捨てて撤収した。残ったのは数人でしかなかった。
右の事例とは別に、その後、コチアと外部の企業との間に持ち上がっていた新しいプロジェクトが何件かあった。が、すべて中止された。
内、一件は三菱商事、米国メーカーとの三者提携によるオレンジ・ジュースの生産・輸出計画である。
二年後の輸入自由化が決定していた日本市場向けに、年間三万トンを輸出するという内容であった。
コチアがオレンジを栽培、米メーカーがジュースに加工、三菱が輸出をすることになっていた。
コチアは、サンパウロ州西部地方の組合員にオレンジを栽培させ、その活性化を図ろうとしていた。同地方の営農は低迷していた。
が、自己資金四、〇〇〇万㌦が必要であった。そんな金は用意できる筈はなかった。話は流された。
もう一件、大型養鶏団地の建設計画(卵、肉用各一カ所ずつ)もあった。
これは実は、プロデセールの中心機関CAMPO側から、資金協力の申し入れがあり、それを当てにして企画したプロジェクトであった。
団地の候補地をゴヤス州のセラード地帯に決めてもいた。
が、そのうちCAMPO側の言うことが曖昧になった。ために、
「また、いざとなったら融資実行遅延の煮え湯を呑まされるのでは、たまったものではない」
と警戒、プロジェクトも棚上げしてしまった。
この養鶏団地に付随して、鶏肉パーツの生産計画も伊藤ハム、日商岩井との間で進んでいた。が、団地の方が、そういうことになったため、これも消えた。
因みに、右のCAMPOに関しては、それ以前のプロデセールの融資実行遅延(前章参照)に関し、一つの疑惑が消息筋に流れていた。
遅延計画を知っていて、何らかの関与をしていたのではないか…というのである。
CAMPOには、日本側から二人の役員が名を連ねていた。リオ・デ・ジャネイロに在った一銀行(現地法人)の元頭取と在ブラジリア大使館の元公使である。
筆者はその頃、一邦字紙でしばらく仕事をしていたが、この二人が、やってきて、プロデセールの事業報告やら何やらをしたことがある。筆者が応対した。
(何故、こんなことのために、わざわざ…)と思った。が、右の消息筋に流れる疑惑を払拭しようとしているのではないか──と気づいた。
そのインタビューの最中、もう一つヘンなことがあった。記事を書く場合、二人の名前を入れるのが普通であったが、元公使の方が、入れないでくれ、という。写真も駄目だという。それで、この人が個人的なスキャンダルを背負っていることを思い出した。
それから暫くして、二人がブラジル日本商工会議所の昼食会にゲストとして現れ、プロデセールの資金に余裕が出来たから、希望者は利用して欲しい、という主旨のスピーチをした。
大変な朗報であった。取材中の筆者が、それならコチアはどうか…と訊くと、ヘンな顔をして口を閉ざしてしまった。コチアが、養鶏団地計画で前記の様な対応をしたことを後で知った。
ともかく、CAMPOには不自然な影がつきまとっていた。
死を直感させる恐怖の対象
コチアの理事会は、財務危機から逃れようとして、資産の売却も試みた。
完成したばかりのアサイの紡績工場、ピニェーロスの旧本部跡、組合発祥の地モイーニョ・ヴェーリョの所有地などである。
しかしコーロル・プランによって景気は冷え込んでおり、商談の成立はなかった。(つづく)









