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アマゾン女性移民との出会い旅(1)=トメアスー編=森林農法の母、坂口敏子さん

2026年3月27日

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 昨年5月、日伯友好130周年の節目を綴る連載取材のため、私は初めてパラー州トメアスーの地を踏んだ。そこで出会ったのは、アマゾンの赤土に深く根を張り、しなやかに生き抜いてきた日系女性たちの姿だった。過酷な移住史の陰で、苦労を朗らかな笑顔に変えてきた彼女たちの足跡を、記憶のなかに留めたい。(島田莉奈記者)

 初回は、世界が注目する「アグロフォレストリー(森林農法)」の礎を築いた、坂口敏子さんの物語を辿る。

 敏子さんの両親が、広島県から移民船「ありぞな丸」でトメアスーへ渡ったのは戦前のこと。長男の勝博さんを抱えた親子3人の、未知なる大地への挑戦だった。

 1934年、敏子さんはこの入植地で産声を上げた。「女子に学問はいらぬ」という時代の空気のなか、幼いころから家業の農業を懸命に手伝った。収穫した野菜が詰まった重い箱を抱え、10キロ先の市場まで売り歩く日々。帰り道は街灯一つない、深い原生林の闇をたった一人で歩き通したという。

 転機は1957年。東京農業大学で林学を修めた坂口陞(のぼる)さんが入植してきたことだった。研究者気質で理想に燃える陞さんを、敏子さん一家はパトロンとして支えた。やがて二人は結ばれ、8人の子宝に恵まれる。

 「僕が7歳の頃、母が作業員と一緒に原生林を切り拓いていた光景が目に焼き付いています」。次男の渡さんは、遠い日の母をそう回想する。父の陞さんは多忙を極め、実際の農作業のほとんどは敏子さんが切り盛りしていた。「母は幼少期から厳しい労働に耐え、現地の食べ物で育った。だからこそ、誰にも負けない強い精神と丈夫な体を持っていたのでしょう」

 母の背中を見て育った渡さんは、農業の神髄はすべて母から教わったと語る。「どんな仕事も深い愛情を持ってこなしていました。アグロフォレストリーを考案したのは父ですが、それを形にしたのは母なんです」。その眼差しには、亡き母への深い敬意が滲む。

 陞さんは2007年に、敏子さんは2021年にこの世を去った。今日のアグロフォレストリーがあるのは敏子さんのおかげと言っても過言ではない。(続く、島田莉奈記者)



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