【オピニオン】「謝罪の日」を教育に=歴史の過ちを未来に生かすために=(12)=奥原マリオ純

2024年7月25日、ブラジル政府はついに公式に、日本人移民に対して第2次世界大戦中および戦後に行われた政治的迫害と弾圧を認め、謝罪しました。これは歴史的過ちに対する謝罪であり、苦しみと屈辱を受けた先人たちの魂に平穏をもたらす一歩といえます。しかしながら、謝罪が真の意味で実を結ぶためには、それを未来に活かす仕組みが必要です。そして、その出発点が「教育」だと思います。
カナダでは日系カナダ人の働きかけにより、かつての過ちを記憶し教訓とする「謝罪の日」が学校の教育活動に組み込まれています。ブラジルにおいても同様に、この「謝罪の日」を教育カレンダーに正式に組み入れることを私は提案しています。
ゼットゥリオ・ヴァルガス大統領による「エスタード・ノーヴォ(新国家)」体制下では、国家主義と人種差別に基づく政策により、多くの日本人移民が弾圧を受けました。自らの言語を話すことを禁じられ、文化や慣習を守ることすら許されない時代が続きました。
日系人が多く暮らしていたサンパウロ、パラナ、パラー各州では、日本語学校が閉鎖され、教師が拘束され、文化行事が禁止されました。運動会、結婚式、スポーツ大会、宗教行事までもが公権力の監視下に置かれたのです。これは、明らかに「文化の抹消」を狙った国家的な政策でした。
にもかかわらず、こうした歴史は今日の学校教育ではほとんど触れられていません。教科書にわずか数行紹介される程度であり、ブラジルにおける日本人移民の歴史や貢献は、教育現場では長らく置き去りにされてきました。2025年になった今もなお、多くのブラジル人は自国における日系人の歩みを知らないのです。
「謝罪の日」は単なる記念日として終わらせるべきではありません。人権や多文化共生、歴史的記憶の重要性について考える教育的機会とすべきです。この日を学校で取り上げることは、過去の不正義に名前を与え、子や孫や友人や地域の人々に、かつて何が起きたのかを正しく伝え、そして国家が過ちを犯すこともあればそれを正す力も持つという「民主主義の原則」を学ぶことに他なりません。
昨年の公式謝罪を受け、私は次のステップとして、教育分野における取り組みを開始しました。ピオネイロ教育センターのアカミネ・ヒライ校長の協力のもと、教育省に対し「謝罪の日」を教育活動に取り入れるための提案書を提出しました。同省では前向きに受け止められ、この提案は国家教育審議会、日系人の西森ルイス連邦下院議員、元議員で現在はサンパウロ州政府の協定担当局長を務める飯星ワルテル氏へと届けられました。
すでに連邦議会に「日本人移民に対する国家的謝罪の日」制定のための法案が提出されました。今後、連邦議会で可決され、大統領が裁可すれば、教育省によって全国的に導入されることになります。
この「謝罪の日」の制定は、単なる一施策ではありません。これは、日本人移民の歴史を「市民教育」の一部として位置づけ、特に公立学校において次世代に継承していく包括的な提案の一環です。多様な民族的ルーツを持つ人々が築いてきたこの国の歴史を教育に取り込むことこそ、真に公正で、人間的で、そして過ちを繰り返さない社会を築く道なのです。
結局のところ、これは日本人移民だけの問題ではありません。ブラジルという国が、いかに自らの記憶と向き合うかという問いなのです。苦難の記録を教育という形で未来に活かす――それこそが、過去・現在・未来を結ぶ、真の和解への道ではないでしょうか。
「正義」が私たちをここまで導いてくれました。そして、これからは「教育」が私たちを未来へと導くのです。