ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(285)
その束は両側が百㌦で、中身は一㌦だった。レストランの給仕などには、一㌦紙幣を取り出してパッパッと配った。
人前ではすべて一流で通した。服装も車も。飛行機はファースト・クラスだった。
加藤は、サンパウロでは、シッポーの土地の分譲をしようとしていた。が、そこには、すでにポッセイロ(不法居住者)が入っていた。買い手もつかなかった。
それでも、この土地を道具に、随分と人を騙したという。
この間、文協で開かれた天皇誕生日の祝賀会に、悠然と姿を現し、彼を知る人々を、
「この世の中、どうなっているのだ!」
と嘆かせた。
加藤は、サンパウロでも、よく人を誘ってレストランに行った。ところが、払う段になると居なくなる。
二度目は(今度は払うだろう)と、皆思っている。が、やはり居なくなる。
三度目。加藤はドル札を見せる。皆、安心して高価な飲み物や食べ物を注文する。が、やはりドロンを決め込む。
小池が一度、やっつけてやろう、と五~六人の仲間とともに、加藤に「自分が払う」と約束させた上で、四、五カ所ハシゴをした。
加藤が逃げないように常に掴まえて、払わせながら…。最後には加藤もガックリ来て、
「助けてくれ~」
と、降参した。
人を騙し非難されても、ケロッとして平気で土下座して謝る男だった。
「加藤に会ったら殺してやりたい、という人間はいくらでも居たろうが、憎み切れないところがあった」
と小池は言う。
シポーの土地の分譲がうまく行かなかったせいだろう、加藤はカフェーを仕入れて、日本へ持ち帰って売るという商売を思いついた。
一九八六年一月九日、日本の読売新聞の地方版(仙台)が、加藤と彼が営む喫茶店のコーヒーを、ひどく持ち上げる記事を、七段抜きという大きなスペースで、写真入りで載せた。
これを、サンパウロの邦字出版物が転載したが、それを読んだ加藤を知る人々は、開いた口がふさがらなかったという。
記事の中で、当人は、
「(ブラジルで)一〇〇㌶の農場を持ち、レタスやカリフラワーを作るまでになったが、十六年前に一人になった妻キヨの母親の面倒を見るために帰国した」
などと喋っている。
七十三歳であった。
加藤は最後はスッカラカンになり、借金だけが残った。貸した方が取り立てに行くと、素っ裸になって踊り出した。経済的には丸裸だということを、実演してみせたらしかった。
一九九〇年代の初期、妻キヨが死んだ。場所は精神病院であったという。
それから数年後、加藤も、労災病院で、くたばった。(つづく)









