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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(290)

2025年11月19日


創立二十五周年の一九五二年には、組合員は五、〇〇〇人を超していた。

同時期、サンパウロ市場では、農産物に対する需要が依然上昇中だった。

第一次世界大戦の折と同様、戦時中の商工業の発展が、そのまま続き、人口が一九四〇年の一三二万から五〇年には二二〇万へ膨張していたことによる。

それを目当てに、奥地の邦人農家が、またも、サンパウロの周辺へ移動していた。

これは、同じ畑で棉作を長く続けたため土が荒れたとか、戦勝・敗戦両派の衝突が醸し出す嫌な空気から逃れようとしたとか…色々な理由があった。

彼らも移動によって心機一転、再出発を図っていたのである。その移動者の多くがコチアなど産組を頼った。

ここで多少の説明が要る。

終戦後、戦勝派が圧倒的比率を占めた中で、敗戦認識を主張する下元率いるコチアの組合員が増えたというのは、一見おかしい。

事実、強硬な戦勝派の組合員の中にはコチアを去った者も少なからず居った。

が、当時の農業者の中には、戦勝・敗戦両派の他に中間派も居た。戦勝派の敗戦派転向も遅ればせながら進んでいた。一九五〇年代に入る頃には、その傾向が強まっていた。

彼らの中のかなりがコチアに加入した。

そういうことで、組合員が増えたのである。

次に、他の組合はどうであったろうか。

ジュケリー産組は、理事会が次の様な一節のある報告書を、一九四七年七月の総会に提出している。

「…(略)…徒に外見的に巨大な組合よりも、優良な組合員と能力に富む従業員による堅実な組合を作りたいというのが、我々の念願であります。従って、余り多くの組合員を受入れない方針をとってきました。

が、真面目で善良な農業者が、多く当組合に加入を希望しており、之を拒絶することは忍び難いため、新入会員として八十一名を受け入れ…(略)…」

ジュケリーは、終戦の翌年一月、理事長ザニニ、専務理事中沢源一郎の体制を敷いていた。(実務は中沢が掌握)

それから一年数カ月後に作成されたのが、右の報告書である。

同時期、中沢は、サンパウロ州西部のプレジデンテ・プルデンテに出張所(コチアの事業所に相当)を開設し活動範囲を州全域に広げる…という経営方針を発表した。

つまり、それまでの方針を転じ、拡大路線をとったのである。

地方への出張所新設は、一九五〇年代に入ると活発になった。州西部のバストスほか数カ所、そして州外のリオヘと…。

当然、組合員数は増え続け、五四年には一、〇〇〇人を超した。「グングンと伸び行くわが組合」と、誇らしげな見出しを、当時の組合月報が掲げている。

同年、組合名もスール・ブラジル農協と改めた。

ジュケリーはサンパウロ近郊の小さな町の名である。それが南ブラジルと名乗ったのだ。そこに事業網を広げようとしていたことになる。

主事業は販売部門は鶏卵、バタタ、トマテ、購買部門は養鶏飼料になっていた。

このスールに強いライバル意識を燃やして、似たような動きをしていたところがある。十五年前、中沢が専務になった時、これを不満として、脱退した面々が作ったバンデイランテ産組だ。

ここも理事長は別に居たが、専務理事の原田実が経営の中心となり、やみくもに拡大主義をとっていた。

加入希望者を積極的に受け入れる一方、地方に事業拠点を次々設置していた。

産組中央会は、戦後しばらく元気がなかった。次の様な事情による。

その主事業は、終戦までは(中央会に属する)地方の組合が出荷する綿の販売であった。が(前記の様に)棉畑の生産性が落ちていた。もう一つの主産物であった繭の市況も低迷中だった。

さらに戦時中、生産拡大のため、銀行融資を受けて設備投資をした地方組合が幾つもあった。しかし目論見が狂い、返済が困難になるところが相次いだ。

結果として、中央会の財務まで悪化したのである。

この窮状の中で、活路を求めたのが養鶏である。中央会は地方組合の組合員が、養蚕舎を鶏舎に転用、採卵と肥料用採糞をするよう奨めた。

自身は卵のサンパウロ市場での販売、雛の配給を担当した。

なお理事長は、戦後もピーザが続け、その下を日系人理事が固めるという体制をとっていた。

ともあれ各産組、各様に活動していた。

ところで、右の四組合の生産物は、同種のものが多かった。しかも殆どをサンパウロの市場で捌いていた。

その市場には、モジ産組や新しく発足した小さな組合、仲買商が似たような生産物を搬入していた。自然、競合状態となった。

地方でも競い合いが発生中だった。例えばバストスでは、以前はバストス産組だけだったが、この頃はバンデイランテ、スール、コチアが進入、さらに新しく地元の組合が二、三生まれていた。自然、組合員の奪い合いが起こった。

なおバストス産組は、かつてはコチアに次ぐ規模であったが、戦時中の大型投資(蚕種製造所建設)が災いして、破綻していた。(後に再建)

ために前記の組合が進入したり、新しく生まれたりしたのである。(つづく)


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