ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(291)
他の地域でも、複数の組合が競い合っている処があった。
一地域一組合が原則という産組理論を学んだ者が見れば驚いたであろう。
が、これが活気を生んだ。
一九五四年、サンパウロ(市)の創立四百年祭の折、産組パレードというものが行われた。州内の産組が二百台以上の山車を連ねて、賑やかに大通りを練り歩いた。
日系からは七十台が参加した。その内訳はコチア五十二台、バンデイランテ八台、モジ六台、スール三台、中央会一台であった。
コチアの突出した台数は、その勢威を表している。スールの三台は、こうした場合、常に控え目であったこの組合らしい。バンデイランテの八台、モジの六台は多過ぎて虚勢を張っている感じだ。中央会は一から再起という気分であったろう。
どこも個性豊かに燃えていた。往時を記憶する人は、
「そりゃ、もう……」
と声を高め、
「バンデイランテなんか、暴れまくっていましたナ」
と回想する。
暴れまくるとは、そういう印象を与える言動が多かったという意味であろう。
御三家
しかし産組以外は、こうは行かなかった。
十章で記した様に、いずれも戦時中、資産を凍結され、リスタ・ネグラ入りとなった。
清算、身売り、接収、接収後競売、閉鎖、休業…と嵐に見舞われた。
従って、その力は大きく減退していた。さらに、新たな難題が相次いだ。ために多くは厳しい道のりを歩んだ。
戦前、邦人社会の中核的存在であった御三家…つまりブラ拓、海興、東山が、その代表例といえよう。
ブラ拓の場合、開戦後、清算、身売りで事業の総てを失った。ただ、南米銀行だけは、終戦後、買い戻そうとした。
宮坂国人たち旧経営陣が、非日系の所有者に交渉、一九四六年末に成立させた。
しかし経営は死に体となっていた。再建は資金づくりから始めねばならなかった。新しい株主を募る必要があった。
その対象として考えられるのは、コロニアしかなかった。幸い農業界とその周辺の多くは潤っていた。
といっても、向うから応募してくる人など居ないから、こちらから頭を下げて、一人一人頼んで歩く以外なかった。
問題は、戦争の勝敗に関し、どういう姿勢を取るか…であった。なにしろ当時はコロニアの殆どが戦勝派であったのに、宮坂は敗戦を認める終戦事情伝達趣意書の署名者であった。
しかし募集は成功した。応募者は一九四八年までに二千数百人に達したのである。
何故、成功したのか?
ここで話は突然、二十数年後に飛ぶが、一九六〇年代の末、筆者は次の様なヘンナな話を耳にした。
「終戦直後、敗戦認識運動の代表者の一人でありながら、戦勝派と通じていた人が居り、今も、コロニアのトップといわれる地位についている」
当時コロニアのトップというと、文協=サンパウロ日本文化協会=の会長とされていた。その会長は宮坂であった。
信じがたい話だったが、筆者は、これを文協の藤井卓治事務局長から聞いた。
宮坂が日本風の料亭で、戦勝派の有力者と一緒に撮った写真も存在したという。
これが成功の種明かしである。つまり戦勝派から出資者を募っていたのだ。
そのため宮坂は、敗戦認識運動からは遠ざかった。
運動に命をかけていた人々は不快であったろう。
参考になる資料がある。サンパウロ人文科学研究所が一九七九年に発行した「下元健吉──人と足跡──」に載っている次の小文である。
「終戦後、コロニアを甚だしい混乱に陥れたテロが一応落着したかに見えた一夜、コロニアの再発足をテーマとして論ずる有志の集まりが、宮腰千葉太氏の宅で開かれた。
其処には宮腰、山本喜誉司、下元健吉、蜂谷専一、宮坂国人、藤平正義、森田芳一諸氏が集まっていた。
会合のテーマが、宮腰氏によって切り出されると、下元氏が開口一番、
『終戦からこの方、あの忌まわしい混乱のさなかを通じて、故国の実情解明に就いて極めてあいまいな態度を保って、時局の紛糾化を防止しようとしなかった人が、この席に一人いる。この人は、今後、この様なコロニアの将来を論ずる会合の席に出ることは一切遠慮して貰いたいものである』
と言い放って、一座を見回した。
この唐突の言に、さすが一座は白けわたった。下元氏が問題とする当人は、まぶしげに下を向いて、これまた一言開陳の言葉もない。老練の山本氏はもとより、温厚の士宮腰氏、勇猛を持って鳴る藤平氏も黙して語らず…(略)…」
文中「まぶしげに下を向いていた」人物の名前は記していないが、これは宮坂であった。
下元も、よくここまで言い切ったものである。コロニアの指導者格の人々の中では、下元は宮坂より格下であった。年令も宮坂が六十近かったのに対して、下元は四十代の末であった。
正論であったとしても、無礼の謗りは免れまい。が、誰も咎めなかったのは、余りの唐突さに驚いていたこともあろう。が、下元の苛立ちが理解できたことにもよろう。(つづく)









