ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(286)
小池が最後に訪ねた時、品の良いお婆さんとベンチに腰掛け、二人で一冊の本を読んでいた。
「このお婆ちゃんとナモーラしているのヨ」
とクスクス笑っていた。
川崎三造は釈放後、サンパウロで一九七〇年代まで生きていたという。
彼がよく通っていた料亭の女給たちの話では「ごく普通の人で、とても、そんな悪人には見えなかった」そうである。
この二人には、あるいは人を操ることには、天性の才があり、そこに恍惚感を感じていたのかもしれない。
水野龍逝く
一九五〇年五月のある日、サンパウロのコンゴニャス空港に、一人の老人が降り立った。水野龍である。十年ぶりの帰伯であった。九十歳になっていた。
当時、そんな高齢者が、日本から旅をするというのは、大変な難事であった。
水野が杖に縋って飛行機から降りて歩きだすまでの写真が何枚か残っているが、必死に最後の精気をふり絞って戻って来たという感じだ。
当時、この写真を見た人々は、
「水野さんは、今度こそブラジルで死ぬために戻って来た」
と感動した。
今度こそ…というのは二十数年前、東京からクリチーバ郊外に移り住んだ水野を見た人々が、
「自分が送り込んだ移民たちが生きるブラジルに死所を求めた」
と感激したものの、実は、本人は新たな事業欲に燃えていた…ということがあったからである。
ところが、今度も水野は、
「パラナの自分の植民地で、終戦の詔勅によって指し示された、新日本の歩むべき他民族との協和の範をつくる」
と燃えていた。
まだ死ぬ気はなかったのである。
郷里の高知では経済的に困窮、帰伯費用はブラジルの知人たちの義援に頼っていた。それでも、この意気であった。
ただパラナの植民地は、事情あって、すでに放棄されていた。
水野、翌年、九十一才で永眠。
その直前、住む家を心配した知人たちが、龍翁会という私的な集まりをつくり、寄付金を募った。帰伯費用だけでなく住む家の心配までした…ということは、水野には、それだけの何かがあったのであろう。
しかし、この人には、本稿の二章で記したように、かつては大詐欺師と呼ばれても仕方のない時期もあった。それを見落とすと、間違いを犯すことになる。
日系社会史上に於ける水野龍の位置付けは「日本人のブラジル移民の道を開拓し、その道を前へ前へと進もうとし、九十歳になっても、そうであった」という点に求められよう。
水野を偉人視する向きもあるようだが、無論、偉人などではない。
偉人という言葉からは偉大な事業、完璧な人格、無謬の人生というイメージが浮かんでくるが、そんな人間などは存在するものではない。
古今東西の偉人伝の主人公は〝作品〟にすぎない。例えば、出版社が偉人伝を売るための…。
十七章
再出発
終戦直後、大騒乱が続く中で邦人社会、コロニアでは諸事業が次々と再出発を図っていた。精神面でもそうであった。
しかし、その成行きは滑らかなものではなかった。
邦字新聞
諸事業の中で、再出発を最も急がれたのが邦字新聞である。
邦字紙は開戦直前、発行が禁止され、終戦後もそのままであった。ために正確な情報が伝わらず、状況誤認の連鎖が続き、戦勝・敗戦両派の対立が発生した。
対立は抗争化、先鋭化、険悪化し、深刻な社会的混乱を招いた。
その混乱を怒る一部の人間が指導者に覚醒を求めるため、襲撃事件を起こした。
すると、それが刺激となって、様々の襲撃事件が連続した。
一方で戦勝派の人々を的にかける詐欺師たちの跳梁が始まっていた。
そういうことで邦字紙の再刊が急がれたのである。無論、戦争の結果を正確に、広く知らせるためであった。
一九四六年の四月一日事件で落命した野村忠三郎などは、元は日伯新聞の編集長だっただけに、逸早く再刊のために動いていた。
その死の五カ月後、新憲法が公布され、外国語新聞の発行が可能になった。
十月以降、サンパウロ新聞、南米時事、ブラジル時報、四七年パウリスタ新聞、四九年日伯毎日新聞、昭和新聞、ブラジル中外新聞と次々と発行された。
しかし何れも、期待された役割を果たした…とはいえなかった。
祖国敗戦の事実を、明確には報道しなかったのである。
パウリスタは後年「敗戦認識の啓蒙に大きな貢献をした」と自負する様になるが、これはおかしい。筆者は、創刊後の数年分の紙面に目を通して、そう思った。
コロニアの動きを報じる頁では、敗戦の事実は取り上げていないのだ。(つづく)









