ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(288)
彼は戦前、コチアという組合を核とする新社会を建設しようとし、事実しつつあった。
一方で、産組中央会を舞台に、産青連運動を起こし、新社会建設の思想を全組合の若者に鼓吹した。
それは戦時中も続けていた。(産青連は、表向きは活動を停止したが、名称を変えて小規模に研修会を繰り返していた)
そして終戦直後、祖国の敗戦という巨大なショックの中でも、その宿願に向けて再出発しようとしたのである。
むしろ敗戦という大ショックで、人の頭の中が空白あるいはそれに近くなっていることに着眼したのだ。これを逆用したらどうか…平時だったら難しいが、今なら出来る、チャンスと直感して…。
こういう思考方法は、この常人離れした傑物の頭の中では、自然の流れであったろう。
一九四一年、産青連が発足した時、彼はコチアの経営を人に任せ、自分は産組中央会の専務職に専従しようとすら考えたことがある。
その時すでに、再編成・一本化を、漠とではあるが、構想していたのではあるまいか。そうでなければ、大コチアの専務職を捨てて、ちっぽけな産組中央会の専務に専従…などということを考える筈はない。
その漠たる構想は結局、実行には踏み切らなかったが、四年後、踏み切ろうとしていたのである。
下元は、この野心的な戦略展開のために、産青連運動を本格的に再開し盟友五、〇〇〇を動かす腹であった。
一週間前には号泣した男が、一転、こういう具合に頭を切り替えていたのである。
当時、コロニアの組織は産組くらいしか機能していなかった。
また、コロニアの殆どは農業に従事しており、産組はその核になっていた。
ということは、再編成・一本化後にできる地方別組合の中心機関はコロニアを動かすことになる。コロニア全体を新社会化することも可能であろう。
実現しておれば、歴史的・革命的大事業になったであろう。
しかし…しかしである。この戦略は進展しなかった。
何故か?
まず下元から検討を指示された幹部職員二人が、面食らって戸惑うばかりだったのである。下元の構想は凡人である彼らには飛躍過ぎた。
それと産組中央会の(開戦までの)理事の間には、下元に対する良くない感情があった。原因は彼の粗野で荒っぽく無礼な態度、口の利き方にあった。(六章参照)
さらに、
「産組の再編成・一本化後にできるその中心機関の采配は下元が握ることになる。彼は開戦までは産組中央会の専務理事であったし、コチアの規模は他の組合とは比較にならぬほど大きい。
采配を握ったらコチアに於けると同様、独裁的に振舞うであろう。乗っ取られる様なものだ」
と警戒、皆そっぽを向いてしまったのである。
彼らは戦時中、下元がフェラースを使って農相に交渉、資産凍結の対象から産組を外したことを忘れてはいなかった筈である。が、それとこれとは別…という割り切り方であったろう。
加えて産青連の盟友も、下元が期待する様には、動かなかった。
これは戦勝・敗戦両派の抗争が原因していた。
盟友は地方在住者が殆どで、そこでは、戦勝派が圧倒的な比率を占めていた。
対して下元は敗戦派で、認識運動では端(はな)から先頭に立っていた。しかも戦闘的だった。
終戦の翌九月の常盤ホテルの集会では、戦勝派に対する弾圧的言辞を発した。十月の終戦の詔勅の伝達式は、コチアの講堂で開かせた。
この伝達式の後、宮腰千葉太ら認識運動の推進者は、地方巡回を始めた。が、激烈な反発に遭い、以後の計画を中止してしまった。(十一章参照)
ところが下元は一人、敢然と続けた。地方を回り、コチアの施設に組合員やその家族を招き、敗戦を認識する様、説得した。
聴衆には、産青連の戦勝派の盟友が多数、混じっていた。
下元は自信を持っていた。自分が説けば、彼らは判ると思い込んでいた。あの産青連運動で盛り上がった熱気、下元人気が自信の源であった。
盟友が、自分の意見に従えば、それ以外の戦勝派の空気も変わるだろう…とも期待していた。
これまた(大騒乱の章で繰り返し触れた)状況誤認であった。
どこの集会でも、戦勝派の空気は厳しく、会場には殺気すら流れた。
産青連の盟友の中の敗戦派が、幾人か下元の護衛のため近くに居って警戒していたが(生きて、ここを出られないのではないか…)と懼れるほどだった。
一方、戦勝派の盟友は皆、先の常盤ホテルでの下元発言を耳にしていた。加えて、直接話を聞き、彼が敗戦派、しかも強硬な反戦勝派であることを知った。驚き、混乱し、下元に対する熱を冷ました。
かくして、その野心的戦略は流産してしまった…のである。
下元は多分焦っていたのであろう。
中央会の幹部職員や前理事の白けた空気の中、自身の戦略を展開するためには、産青連運動を本格的に再開しなければならなかった。(つづく)









