ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(293)
モジの片倉農場は、輸出奨励品の紅茶を生産していたため、戦時中は事業を順調に続けることができた。が、終戦後は輸出が難しくなり、経営は難航した。後に閉鎖している。
商社・拓殖以外では、リオに横浜正金銀行があった。一九四五年、ブラジルの対日宣戦布告で閉店した。
一九五〇年代になって、東京銀行の新看板で店開きしている。
なお、アマゾン方面では、アカラ植民地が、戦時中、パラー州政府の管理下に置かれた。(ここは、創立した鐘紡が既に手を引いていたから、元進出企業ということになるが…)戦後、入植者の努力により段階的に自立して行った。
アマゾニア州政府の監査下にあったアマ産は接収・競売されてしまった。
このほか、移民が作った産組や商店、茶工場がサンパウロその他に在った。
産組についてはすでに触れた。
商店の内、代表的存在であった蜂谷商会はリオとサンパウロに在って、兄と弟が別個に営業していた。
弟専一の伝記によれば、兄のリオ店は、工作をして戦時中も営業を続けた。
が、専一のサンパウロ店は、それをせず、休業状態となっていた。一九五一年、前記の資産凍結の解除を受け、貿易商として息を吹き返した。
その他の商店は、戦時中については不明だが、戦後は営業をしていることが判る記述類がある。
茶工場については全く資料を欠くが、戦時中は輸出用の紅茶の生産をしていたから、好調であった筈だ。むしろ、片倉と同じで、戦後が大変であったろう。
なお、開戦時に閉鎖させられた日本商業会議所は一九五一年に再開した。
その他各種の事業では。──
開戦後に監査官の管理下に置かれた日本病院は、種々経緯があって、コロニアに戻ったのは、一九九〇年のことである。ほぼ半世紀後の再出発であった。
ただ、それ以前、カンポス・ド・ジョルドンの結核療養所が一九六五年、コロニアへ無期限貸与され、その九年後、無償譲渡されている。三〇年近く経っていた。
サントス日本人会館は、終戦後の一九四六年に接収された。二〇〇六年、九九年の期限付きで地元コロニアに無償貸与され、二〇一六年、返還された。なんと七〇年かかっている。
なお、以上は筆者が渉猟できたものだけである。ほかにも多数、同様のケースがあった筈である。
四百年祭
戦勝・敗戦両派のその後はどうなったであろうか。──
一九五〇年代、連続襲撃事件は既に終わっていたとはいえ。双方の対立気分は薄れてはいなかった。
ここで東山の山本喜誉司が登場する。
山本は終戦直後、敗戦認識運動の代表者に名を連ねたが、実は当初、その効果を疑問視して熱意を示さなかった。ただ、襲撃事件が始まると、
「(それを)憂う志士的沈痛さが陰りだした」
と親しい関係にあった鈴木悌一(サンパウロ大学教授)が記している。
ただ、時期を待ち、布石を打っていた。
一九五〇年十一月、山本は母校の東大から博士号を授与された。カフェーの害虫対策に関する研究資料を、学位論文にまとめて送っていたのである。
「やはり箔をつけておかんとネ」
と、山本は微笑しながら話していたという。
一九五二年、ブラジル・日本の国交が回復した。
一九五四年、サンパウロは前記の様に創立四百周年を迎えた。
その記念祭が二年前から準備されていた。祭典の主催機関は各国系コロニアに参加を求めた。(コロニア=この場合は同国人社会の意)
これを知って山本は「時至れり」と立ち上がる。戦勝・敗戦両派の融合のチャンスと見たのである。
彼は日系社会が大同団結の上、四百年祭に参加することを提唱、日本人協力会を発足させた。
会長は自身が引き受けた。戦勝派も敗戦派も中間派も、委員に含めた。
さらに訪日して、政府・民間の支援を得るべく東奔西走した。
コロニアの祭典参加は実現した。
さらに翌年、山本は文協を創立、初代会長に就任した。
コロニアの中心機関をめざしていた。
その三年後の一九五八年は、笠戸丸から五十年目に当たった。
山本は祝典を企画、準備に没頭した。四百年祭と同じ手法で、祭典委員会を設立した。
委員長を引き受け、再び訪日した。この時は胃潰瘍で手術をしている。
その努力が実って、三笠宮ご夫妻の出席が実現した。
英国型紳士であった山本の選んだ融合への手法は、極めて日本的な「祭り」であった。
戦勝・敗戦問題には触れないという雰囲気をつくりながら、祭りを用意し、総ての人々に参加を求め、数年がかりで準備した。(つづく)









