38歳で大蔵大臣就任、卓越した能力
先日アントニオ・デルフィン・ネット(ANTONIO DELFIM NETTO)教授の訃報が、ブラジル日報をふくむ全国のマスコミを通じて大々的に報道された。彼の功績については既報のとおりであり、38歳で大蔵大臣就任のみならず、それ以前にはサンパウロ州財務長官も務めていたことから、その能力はあまねく知られていた。
もっとも、メジシ政権末期においては、次期ガイゼル政権との折り合いの関係もあり、お手盛りで在フランス伯大使としてパリへ赴任していた。大使の任命には上院で口頭試問が行われ、さらにはキャリア尊重志向のブラジル外務省が外部からの任命を嫌う傾向にあるなかで、その人事を認めざるを得なかったことにおいても、彼の実力のほどがうかがえる。
経済学者としてのデルフィン・ネット氏がブラジルのコーヒー政策に関して一家言を有していたことは、かつて彼の教授論文審査をUSP教授として務めたフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ元大統領からも聞いたことがある。そして、まさにそのコーヒー政策に関してメジシ政権の下で日系人初の閣僚となった故安田ファビオ(FABIO YASUDA)氏(元商工大臣)との間で意見の相違から論争となり、コチア産業組合等における農業政策経験者の安田氏を僅か3カ月で辞職に追い込んだことでマスコミをにぎわしたこともあった。
ガイゼル政権を継いだフィゲイレード政権のみならず、民主化後のサルネイ政権においても大蔵、経済企画、農務の各大臣を務めたが、肝心のハイパーインフレの終焉はイタマール大統領下のカルドーゾ大蔵大臣のレアル・プランによって実現された。
カルドーゾ氏はその功績によって次期大統領に選出されたが、デルフィン・ネット氏は同政権下では、サンパウロ州選出の下院議員として野党側に転じ、その後も5期20年間を務めた。そしてルーラ大統領の2期8年、ルーセフ政権の6年、テーメル政権の2年間と、常に影の経済アドバイザーとして活動していたことは周知のとおりである。
教え子をデルフィン・ボーイズとして重用
かつての軍事政権時代においては、政権交代が生じて閣僚就任の要請があるたびに、デルフィン・ボーイズ(DELFIM BOYS)と称されたサンパウロ大学経済学部の教え子を十数人単位で率いて省内の局長級の各ポスト、中央銀行、BNDES、その他の要職につけたことによっても有名であった。
そのなかでも28歳で中央銀行理事、その後INCRA(農地改革院)総裁を務めた故横田パウロ(PAULO YOKOTA)氏、経済企画省経済局長を務めた池田昭博(AKIHIKO IKEDA)氏、電力公社理事のMASATO YOKOTA氏等の名前を挙げることができる。
私は第5軍政令の公布によって史上最悪と評価されたメジシ政権下ではUSP法学部の学生であり、反政府学生運動に参加していた。卒業後、文部省国費留学生として日本に滞在中、在京ブラジル大使館における通訳のアルバイトを通じて、訪日するブラジル政府要人と知りあうことができた。最初の通訳は、メジシ政権下のジアス・レイテ(DIAS LEITE)鉱山動力大臣であった。その後のガイゼル政権においては、植木茂彬(SHIGEAKI UEKI)鉱山動力大臣をはじめとして、1976年のガイゼル大統領訪日を含む多くの政府要人の通訳を務めた。
初めてデルフィン・ネット氏の通訳を務めたのは横田パウロ氏がフィゲイレード政権の一員として訪日してきたころにさかのぼる。横田氏は私より10歳年上で、それまでは面識がなかったが、彼の厳父は私の父と同業で、しかも同じジョアン・メンデス広場で洋服仕立て業を営んでいた。
そのこととは関係ないが、彼はなかなか気難しい性格で、日系社会の多くの先輩から毛嫌いされていた。しかし、通訳としての私の能力を認め、また日本関係の専門家としてデルフィン・ネット氏をはじめとする、当時の政府中枢の人々に紹介してくれた。
私は1983年に日本留学を終えてブラジルにもどり、サンパウロ大学法学部の教員任用試験を受験する準備をしていたが、留学中の縁で、横田氏を通じてデルフィン・ネット氏の対日関係の補佐を務めるようになった。私はその関係で経済企画大臣やINCRA総裁補佐官、つくば万博ブラジル館設立委員等を拝命し、当時のブラジル政府要人のみならず、政府機構の仕組みも知ることができた。
訪日10数回の知日派、通訳として同行
デルフィン・ネット氏の訪日回数は10数回に及び、また日本から政府、経済界等の要人が訪伯するたびに会談が行われていたが、当時は通訳の数が少なかったこともあって、多くの場合、私が通訳を務めていた。通訳としての思い出は、経済や財政についてであっても、大臣間の会談は大所高所の話が多く、訪日の際に経団連をはじめとして講演を依頼された際にも、日本側が聞きたかった細部にわたる話題はあまりなかったように思う。
しかし、10年以上にわたったブラジルの対外債務交渉においては、デルフィン・ネット氏が現職の大臣として直接交渉に赴くことはなかったが、ブラジル側実務担当者と大蔵省財務官や国際金融局長との会談に際しては、債務の金利に関する話題になり、パーセントの何分の一といった数字が飛び交うこともあったが、その際の通訳が難しかったことを覚えている。しかし、そのような会議の通訳することによって、普通は接することのできない内容を知ることができ、得難い勉強になったことは言うまでもない。
また、1982年9月のトロントにおけるIMF(国際通貨基金)総会において、メキシコが会議の冒頭にデフォルト宣言を行ったことにより、将棋倒しに中南米債務危機が訪れることになった。ブラジルはそれまでにも債務の支払い期限が到来する前に、個々の借り換え交渉を行ってきており、支払い能力があることを主張したが、他の諸国と同様にすべての公的機関、民間銀行からの融資の道が閉ざされてしまった。
IMF協定第8条の適用が申請されることにより、国家財政や歳入・歳出の状況と言った調査のためにIMFから特別チームが派遣され、大蔵省、中央銀行、経済企画省等に出入りして情報の提供を要求し、その厳しい調査の結果としてOKが出されると、当時は10億ドル単位の融資がIMFによってなされていた。
債務国ブラジル側代表が尊大な態度をとる裏側
それに基づいて各国の公的機関や民間銀行も融資を再開することができる体制であった。しかし、数カ月後に財政再建を目的としたIMFとの約束が順守できないことが判明すると、大蔵大臣はいわゆるWAVER LETTER(権利放棄レター)をIMFに対して出さなければならない仕組みになっていた。すなわち、国家としてIMFに対して約束した目標を達成できないことに対して陳謝することが必要になっていた。
しかし、あまりにもLETTERを出す回数が重なるので、ある日デルフィン・ネット大臣にそのようなことで大丈夫なのかと聞いて見たところ、彼はIMF側も達成できないことはわかっているはずで、LETTERなど何通でもサインすると答えたことに驚いたことを記憶している。
対外債務のリスケ交渉は、民間銀行団とはニューヨークで、債権国とはパリクラブで行われていた。民間銀行団との交渉における幹事銀行はシテイバンクで、日本側の幹事銀行は東京銀行であった。当時のブラジル東京銀行頭取は故小林利郎氏であったが、ニューヨークから戻ると常にご機嫌斜めなので、どうしたのかと聞くと、交渉にあたるブラジル側代表の態度は尊大で、どちらが債権者か債務者かわからない、とのことであった。
デルフィン・ネット氏に聞くと、銀行への債務については金利のみならずスプレッド(危険手当)も含まれており、ブラジル側に返済能力があることはわかっているはずだ。借金というものは少なく借りると単なる債務者だが、多く借りてしまうと銀行のパートナーになり、勝手な取り立てはできなくなる、という大らかな説明であった。
債権国との交渉はパリクラブで行われていたが、そのような名前のクラブがあるわけではなく、パリのフランス大蔵省の建物内の一室を借りての交渉であった。ブラジルは単なる債務国ではなく、中南米諸国やアフリカの数カ国に対しては債権国としての交渉経験も有していたことから、債権国側の手の内をよく把握しており、こちらにおいても粘り強い交渉が行われていた。
結論として、リスケ交渉は10年以上にわたり、1200億ドルの債務に金利とスプレッドを上乗せして30年間で支払うことで締結した。現在では債務は完済し、さらなる外貨準備を約3500億ドル保有している。IMF協定第8条もブラジルにとっては、もう必要ないとのことで、第2次ルーラ政権において更新しなかったことにも驚き、デルフィン・ネット氏に聞いたところ、それだけの外貨準備があれば、経済・財政に関わる案件についてIMFに介入されないためには当然のことだと答えていた。
訪日する度に百万円単位で神田の古本を買い漁る稀有な図書収集家
また、デルフィン・ネット氏は稀有な図書収集家としても知られており、あまりにも多くなった図書の重量のため、サンパウロ市内のマンションの床が抜けそうになったとのことで、急ぎ郊外の別荘に大部分を移したことがあった。亡くなる数年前に25万冊ともいわれた蔵書をサンパウロ大学に寄贈したが、大学当局は新たな図書館の建物を新設してその収納にあてたこともニュースになった。
実は、私はその1%ほどの図書の購入のお手伝いをした思い出がある。訪日するたびに、多忙な日程の中で、ある日の午後は必ず神田の洋書専門の古書店「崇文荘」に足を運び、数時間を費やすことを常としていた。デルフィン・ネット氏はニューヨーク、ロンドン、パリの古書店にすべて足を運んだが、日本の古書店が最も品数をそろえ、清潔に整理されていると褒めていた。
思えば、日本の学者、研究者は海外に留学した際や、国内においても洋書を購入して熟読し、論文を執筆することを常としていた。1980年代ごろまで洋書輸入専門店は独自の為替レートを導入しており、現在のように直接輸入はできないシステムになっていた。
それらの教授が亡くなると、かつては所属していた大学が遺族から寄贈を受けていたり、買い取っていたこともあったそうである。しかし、現在ではどこもスペースの問題で受け入れはできなくなっている。そこで、ご遺族は研究者や大学院生に寄贈したり、あるいは古書店を呼んで引き取らせるが、多くの場合に支払われる金額は二束三文であると聞いている。
デルフィン・ネット氏は一回に100万円、200万円と言った買い方をし、何箱もの梱包を作成させ、かつてパレスホテルの地上階におかれていたVARIGブラジル航空の事務所に運ばせ、帰国する際の乗機に積み込ませていた。傍でみていると、経済学、特にマルクス経済学、社会学等の洋書が多く、ある時「何故、専門外のマル経の本を多く買うのか」と聞いてみると、「敵の手の内を知るためだ」とのことであった。また、いったいこれだけの本を買い込んで、「いつ読むのか」と聞いたところ、「時間がなくて読む暇などないが、将来サンパウロ大学に寄贈するのだ」と答えていた。事情を知る者にとって、亡くなる前に寄贈が実現したことを嬉しく思った次第である。
デルフィン・ネット氏は、まつ毛が皮膚にくいこむとかで、サンタクルス日本病院の眼科に足しげく通い、その応対を常に褒めており、友人知己にPRしていた。日本食については、残念ながら醬油味を好まないとのことで、訪日した際に多くの食事の招待があった中で、常にフランスかイタリア料理を選択していた。
人間の評価は棺を覆って定まる、と言われているが、デルフィン・ネット氏は、96歳で天寿を全うした際、かつての同輩や教え子のみならず、政敵もその死を悼んでいたことは特筆に値する。
合掌