《記者コラム》有限の天然資源で潤う都市=終焉後の生存手段模索中

1日朝、G1サイトで、ミナス州の鉱山都市が鉄鉱石を掘り尽くした後も経済を維持するための方法を模索中という記事を見た。
普段は増産や脱炭素化のための投資、資源採掘のための環境許可取得などの記事を見ることが多いが、その記事にはイタビラ市にあるVale社最大の鉄鉱山があと17年程度しかもたないなど、資源事業の終焉が近づいているため、鉱山都市は経済の多様化を図り、鉄鉱石への依存度を減らすと共に、採掘活動を終えた後も生き残るための方策を見つけようとしているとある。
これを読んで、以前から感じていた不安が蘇った。今は亡き父はガラスの原料となる石を採掘する現場の責任者だった。父の仕事の都合で転居や転校を繰り返したことの影響もあり、高校生の頃から、石油や鉄鉱石などの有限な資源やそれらを使った製品がないと生活できないこの社会はいつまで保てるのかという不安を覚えていた。
天然資源がやがて底をつくことは明らかだし、石油多用などで気候変動が深刻化していることも含めた将来への不安感は何かにつけ、思い起こされる。環境問題の国際会議では化石燃料への依存度を減らす必要なども説かれたが、2日にはブラジル国内の石油生産量が5月に3・9%増えたという記事も出た。資源業界や政財界はまだ、増産やロイヤリティへの関心の方が高いのだなと思わされる次第だ。
有限の資源とそれを食い尽くす人類という図式が終わる時がいつ来るのか、その時、人類はどんな生活様式を確立しているのか。再生可能エネルギーへ転換するにしても、施設の建設や維持には鋼鉄などの資材が必要なはずなどと考え始めるときりがない。
有限なものに依存する生活から抜け出すには、人知を尽くした研究や工夫が必要だろうし、食料危機に対応するための昆虫食や宇宙への移住計画などの話を聞くと、全ての人が対応できるのかとも考えてしまう。
人によっては、自分達が生きている間は現実化しない問題で悩むのかと笑うだろうが、自分達も含めた世代が蒔いた種を子供や孫が刈り取らなければならないのなら、彼らの問題を少しでも軽減するために協力したいと考えるのは愚かだろうか?
民政復帰や大統領直接選挙、女性の参政権などは皆、多くの闘いを経て手に入れたものであることや、オゾンホール出現や酸性雨で大気層の大切さや大気汚染の怖さを思い知らされたこと、天然資源の形成には膨大な時間を要すること等々を考えるとなお、資源都市の苦悩をひと事としてはならないとも思わされる。
父は癌で亡くなったので気持ちの整理もできたが、母や長男は突然亡くなった。社会環境の変化で電撃解雇された人もいる。そこにいることが当たり前だった人やものを失った時も慌てずに済む生き方、考え方を身につけておくべきと、鉱山都市の話から、改めて考えさせられた。(み)