外国人就労者に人気上昇中の町=「滋賀県湖南市へようこそ!」=(3)=移民の子として日本で挑戦

上森氏は1982年、サンパウロ市で生まれた。日系二世の母方の曾祖父が和歌山県から、祖母が熊本県からブラジルへ移民した事実を近年になって知った。父親も九州出身であり、両親は1982年に結婚。幼少期の上森氏はフェイランテ(露店商)を営む親に連れられフェイラへ通い、朝早いので露店の裏で眠っていた記憶が残っているという。
家族は南大河州カンポ・グランデに移住し、父親は自動車整備業を始めたが、経済的な困難に直面。1990年、日本での好景気を頼りに両親はデカセギを決意し、滋賀県大津市の電機会社と契約を結んだ。一方、幼い上森氏と弟妹は、父方の伯母に預けられた。
伯母は忙しい看護師業と子育ての合間を縫って甥姪を学校や日本語学校に通わせ、教育を支えた。「伯母の苦労を思うと感謝しかない」と振り返る上森氏だが、頻繁に送られてきた両親からの写真付き手紙も、幼い彼の心の寂しさを埋めるには至らなかったという。
日本での青春と挫折
1992年、9歳で母親と再会した上森氏は、日本へ移住。両親と大津市内の工場寮に住みながら、地元の小学校に編入した。同校初の外国籍児童として、文化や言語の壁を乗り越えた。だが中学校では問題行動が増え、困り果てた母親の決断で1997年に再び帰伯することになった。
母親は日本でも携わったことのある人材派遣の仕事を始め、上森氏もそれを手伝いながらブラジルの厳しい現実を見た。ファベーラで汚水を飲む子どもの姿に衝撃を受け、自分の恵まれた境遇に気づく契機となった。「何か資格を取ろう」と決意してヘリコプターパイロットを目指し、その資金を稼ぐため18歳で再訪日。昼夜を問わず働き、月収50万円を稼ぐ生活を送りつつ、自分の将来を模索していた。
起業への道

20歳の頃「起業する」と決意した上森氏は、人材派遣業への関心を深めた。「日本語とポルトガル語を活かせば人の役に立てる」と母親から助言を受け、愛知県の人材派遣会社で経験を積む。メキシコ人の父親と博多出身の母親を持つアルゼンチン生まれの妻となる女性と出会い、私生活の転機も人生を大きく変えた。
派遣先企業の社長の一声が、寝る間も惜しみ努力を続けた上森氏への追い風となった。そして2004年、24歳で人材派遣会社「インフィニティ・グループ」を設立。多感な子供時代からの紆余曲折の経験が、現在の事業に生きている。彼の原動力は「困難を乗り越えてこそ、社会の力になれる」という信念だ。(つづく、取材=大浦智子さん)