ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(333)
しかし実際は、その逆であったわけだ。
もっとも、コチアに於ける無責任体質は、ある元役員によると「昔から、そうで…」という。
そういう調子で、暴風雨下、船の舵をとっていたわけである。
剣ヶ峰をよろめきながら…
同じ八〇年代初期、原油価格は、第一次ショック以前の十倍以上になった。
ためにブラジルの石油輸入額は、国の総輸入額の半分近くを占めてしまった。
国際金利は一八㌫にハネ上がり、対ブラジル融資はスプレッド(特別金利)が加算され、二〇㌫という超高水準となった。
外債は八五〇億㌦を越え、外貨準備は底を尽いた。
フィゲレード政権は米国、IMFの支援を取り付け、全世界七百の債権銀行に支払い繰延べを交渉、
「期限到来の元本の返済を先に伸ばし、利子のみ半年ごとに払う」
という方法で辛うじて切り抜けた。いわゆるリスケジュール、略してリスケである。
ここで債権銀行が七百という事実が、表に出てきている。驚くべき数である。資金繰りのため、世界中のあらゆる銀行に交渉、貸してくれるところからは借りまくっていた…そういう感がある。
ブラジルは、譬えて言えば、外債という過重極まる荷を背に、剣ヶ峰をよろめきながら歩いているような具合だった。
しかも、そこからスベリ落ちることなく、内債、そして、これが原因となってハイパー化しているインフレに、取り組まねばならなかった。
内債は、この頃「公共債務」と呼称される様になった。発表される数字は以前の「外債に近い規模で増加中」とはガラリと変わっていた。言葉の定義と算出基準を変えたためであろうが、実質的には同じ額で、急激に膨張中であることは、間違いなかった。
インフレは八〇年以降、年間一〇〇㌫前後で推移、八三年からは二〇〇㌫台に乗り上げてしまった。
要するに総てが危険極まりない段階に入っていた。
夢の如く…
一九八〇年代も、七〇年代後半に始まった日系進出企業の撤収・休眠化が続いていた。
踏み止まり事業を継続中の企業も、多くは守りに徹していた。「塹壕に籠る」という表現が使われた。
コロニアと日本の企業の合弁も〝ザ・エンド〟になるところが相次いだ。
藤平正義のブラジル豊和は、経営権が、同社に出資していた日本側の企業に渡った。
山本勝造のサドキン・ド・ブラジルは、佐渡島金属(大阪)が手を引いた。
今井繁義のハツタ・ド・ブラジルは、農機具の生産販売が行き詰まり、初田工業(大阪)とは手切れとなった。
スズキ自動車を新たな合弁相手に迎え入れたが、この提携は直ぐ破れ、係争沙汰になってしまった。その後、同社は閉鎖している。
広範囲に、コロニアと進出企業から出資者を募って、設立された日伯農牧開発も、進出側が資本を引き上げた。
ブラジル・ブームなど、夢の如く消え去っていた。
ただし、そうした中、次の様な話もあった。
一九六〇年代に進出した三井イハラ農薬という会社があった。(十八章参照)
三井物産とイハラ農薬の合弁であった。が、一九八〇年代に、三井側が撤収、イハラも引き上げた。
この時、パラナ州カストロの日系事業家が後を引き受けた。社名はイハラブラスと変わった。
進出企業をコロニアが入手したというような話は、ほかにない。
合弁相手は日本ではなく米国企業であったが、レジストロの山本周作のシャブラスは、善戦中だった。(十七章参照)
参考までに記しておくと、同地方の製茶産業は、七〇年代から八〇年代前半にかけて、成長を続けていた。
八二~八五年が最盛期で、生産量は一万二、〇〇〇㌧、九九㌫が紅茶で、その九〇㌫が輸出されていた。
一㌔一㌦で売れれば、採算はとれたが、二㌦五〇㌣から三㌦近くまで上がった。
主な工場はシャブラス他六カ所、内一カ所がスイス系、他は日系であった。
工場で働く従業員は計九五〇人、お茶の葉=青芽=の生産者は六百七十家族を数え、内九割が日系だった。
一個の産業として、地域社会に貢献していた。
レジストロ地方は、ブラジル唯一の紅茶生産地でもあった。
そうした中で、シャブラスの生産量は三、六〇〇㌧、輸出は三、二〇〇㌧で業界最大だった。
イギリス、米国、カナダその他に出荷していた。
従業員は二五〇人、取引先の青芽の生産者は四百家族であった。
農業融資の恩典、バッサリ
一九八三年、農業界を愕然とさせる決定が、連邦政府から発せられた。
八三/八四農年以降の、農業融資の恩典がバッサリ切られたのである。
前農年までは、利子はインフレにかかわりなく四五㌫であった。インフレは一〇〇㌫前後で推移していたから、大変な恩典である。(つづく)









