ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(334)
これが廃止され、さらに実質三㌫の利子が課せられることになったのだ。
融資全体の予算額も、大幅に縮小された。
連邦政府は財政危機から脱するため、予算を切りまくっていた。
農業界は、一瞬、息を呑み、言葉を失い、表情を凍り付かせた。
ある銀行の農業融資担当者は、筆者を前に、
「これは、大変なことになりますヨ」
と呟いた。
農業界は瀬戸際に追い込まれた…というニュアンスであった。
中沢源一郎、没す
一九八四年の末、スール・ブラジルの理事長中沢源一郎が他界した。七十七歳。
後任は、戦前一世の富森敏雄専務、専務は二世の笠原定尚理事が継いだ。
中沢は、この組合を、経済雑誌EXAMEから「ブラジルの農畜産部門で最も優良な企業」として、二度も表彰されるほどに磨き上げた。
組合外では、援協=サンパウロ日伯援護協会=の会長を十五年つとめ「間借り、机一つ」の事務所から、コロニアを代表する福祉団体に育て上げた。
さらに文協会長となり、前章で記した事業を実行した。
移民七十周年の祭典委員長も務めた。
しかし、この人の日系社会史上の位置づけをしようとすると、ハタと当惑する。何故だろうか?
多分、その事業が独創性や光を欠いていたからであろう。
スールに関して言えば、その経営はコチアを模倣した部分が多すぎた。
社会福祉事業家としては、規模は援協より遥かに小さな救済会の、渡辺マルガリーダが放った光が無かった。
文協会長として手掛けた文協ビルの増築は山本喜誉司の計画、移民史料館は斎藤広志(サンパウロ大学教授)の構想であった。
七十年祭のパカエンブーは、十一年前の皇太子ご夫妻歓迎式典とよく似ていた。
無論、これら諸事業は、中沢だからできたのである。相応に評価されるべきであろう。
しかし批判を嫌い、その隙を見せまい、許すまい──とする狭量さがあった。
その結果、中沢一人の事業になってしまう印象があった。
中沢は、実は組合員からも批判されていた。独裁、冷血漢、感情的…と。
かつてコチアの下元健吉を独裁と評した当人が、やはり、同じ言葉で批判されたのは面白い。
もっとも、その死後出版された『中沢源一郎・人と業績』という小冊子によると、中沢は「独裁というなら、スール・ブラジルのそれは、民主的独裁だ」と反論していたという。
この小冊子には、次の様な記事(要旨)も載っている。執筆者は、組合の地方役員たちである。
「スールの従業員の安月給は有名であった。それを補う意味で、ボーナスを出すことを理事と地方役員の合同会議で決めた。(中沢は)その場にいたのだが、翌日になると、それを不承認とした。ひどい独裁だナと感じた」
「一九六三年頃(サンパウロ州西部地方の組合員の)落花生の生産が盛んとなり、搾油工場の建設を、組合本部に申し込んだ。それが理事会で決定され(中沢も)自ら現地へ足を運び、代表者と建設を決めた。
二週間後、本部で臨時役員会を開いて形式を整えるというので、現地代表者は勇んでサンパウロへ向かった。が、(中沢は)『熟慮して中止』と言い渡した。一同唖然とし、君子は日に三転する、と…」
「サンパウロに建設した食鶏処理場を、数年で処分してしまった。これは石橋を叩いて渡って、なおかつ戻ってきた例である」
「一部の組合員からは、冷血漢と評されている」
「組合経営のことになると、話合いが順調にいかぬ場合、人が変わったように顔色を変えて興奮した。感情の起伏の相当激しい人という印象であった」
右の記事以外に、次のようなこともあった。
一九六〇年代の末のことと記憶するが、ある時、南銀の参与(株主代表)をしていた人が、預金総額が不足していたため、中沢にスールの預金を増やして欲しいと頼んだ。
その時、南銀が危機にあるかの様な話し方をした。
すると、中沢は預金を増やすどころか、すぐ、全額引き出してしまった。
「組合の預金は、組合員のものであるから、危ない銀行に預けておくわけにはいかない」
というのである。
頼んだ方は、筆者など記者たちが居る前で、中沢に噛みつき、激怒していたものである。
奇妙な驀進
一九八〇年代は、ブラジル経済界全体に、深刻な停滞ムードが漂っていた。その中で、何故かコチア産組の動きは違っていた。活況を呈していた。
例えば、一九七〇年代に引き続き、新規の営農団地づくりに次々と取り組んでいた。
八〇年には(前章で僅かに触れたが)ミナス州パラカツでプロデセール(第一次)に参加、組合員五〇人が入植した。(入植者数は概数、以下同)(つづく)









