ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(341)
これに対して神取は、こう語る。
「あのときは、ケイロウを呼ぶ…という知恵は沸かなかった。配慮が足りなかった。
しかし、ゼルヴァジオの肩を持つというような気もなかった。
そういえば、ケイロウの金の使い方に関する資料を要求したとき、それが意外に早く出てきた。用意してあったかのようだった。
その意外さについて、森さんと話した記憶がある」
結局、返り咲き運動は阻止された。導火線上の地雷は爆発しなかった。
松原は、以後、自身が選挙に出ることはなかったが、ケイロウ返り咲きに、執念を燃やすことになる。
最後の創立記念式典
半年後の、一九八七年九月、コチア産組は、創立六十周年をアニャンビー会議場で祝った。
筆者も覗いてみたが、全伯から五〇〇人ほどの組合員代表が出席していた。
会長のゼルヴァジオや専務の小川が、正面壇上にのぼり、スピーチをしていた。
この六十周年の頃、コチアは外部からは、
「驚くほど大きくなっているらしい。が、大き過ぎて、その実態は、よく判らない」
とすら言われていた。
で、その実態であるが、規模は一経済雑誌の国内民間企業番付では、一九八五年と八六年に、二十一位になっていた。
組合員は一万四、〇〇〇人、従業員一万人。数年前、ケイロウの大合理化で、八、〇〇〇人と七、〇〇〇人まで減ったが、それがその後、再膨張していた。組合員の場合は、除名された人々が戻っていた。
組合員の出荷物はバタタ、果実、トマテ、玉葱、鶏卵、食鶏、大豆、カフェー、ミーリョ、小麦、その他。
組合員の所在地は、サンパウロ、パラナ、サンタ・カタリーナ、南マット・グロッソ、マット・グロッソ、ゴヤス、バイア、ミナス、リオ・デ・ジャネイロ、計九州の九十地域に広まっていた。
この九十地域に一つずつある部落(既述、組合員組織)が、地方別に、十の単協を構成していた。(一九六七年当時の八単協のほか、ミナス、ノルデステ=東北伯=の二単協が、新設されていた)
さらに、単協に属さず本部に直属する組合員のグループがあった。この九十部落、十単協・直属組合員グループを統括していたのが、サンパウロ市内のジャグァレーにある中央会本部である。
その本部は、地方の組合員に対する業務機関として、各地に事業所を設けていた。それが八十二カ所(その支所が七カ所)を数えた。事業所は一カ所で二部落を担当するところもあった。
このほか、さまざまな施設が、国内はもとより国外にもあった。
主なものを上げると。──
《組合員の出荷物の保管・流通部門》
各生産地に設けられたバタタ、玉葱などの集配センター、蔬菜のパッキング・ハウス、鶏卵の選別所、果実用の冷蔵倉庫、バナナの熟成施設、穀物用乾燥装置付き大型サイロ、カフェーの精選・選別場、倉庫。
《組合員の出荷物の販売部門》
消費地のセアザ(農産物・食糧品配給センター)やその他の市場に置かれた販売ポスト、スーパー・マーケット方式の卸売専門店。
《組合員の出荷物の加工部門》
食鶏処理場、液卵工場、バタタのフレンチ・フライ工場、精綿工場、製茶工場、ラミー工場。
《組合員向け営農資材・生活用品の生産配給部門》
肥料工場、農薬工場、飼料配合所、種鶏場、孵化場、蔬菜の種子選別所、バタタの種芋の冷蔵倉庫、資材配給所、生活用品を小売りするスーパー・マーケット。
《その他》
組合直営の各種農事試験場。
種芋購入や生産物の販売のためのオランダ事務所、主にバナナの販売のためのアルゼンチン事務所──。
以上で約百六十カ所を数えた。
(右の施設は、各一カ所ではなく、複数のものが多い)
さらにグループ企業として、農業融資のコチア信用組合、種子のアグロフローラ、食用油のイルパーザ、保険のコンコルジア、保険代理業のプロミソール、CODAI(同社の事業は、この頃はホールデイング・カンパニーから不動産へ転換していた)、農産物の直接売買のリセイアがあった。
地方では部落々々で、その組合員が、出荷組合=GTC=を経営。
グループの団体として、コペルコチア共済会。これは、元々は総合病院建設のために設立されたが、それが中止後、診療所を開き、小病院ていどに成長していた。
クルーベ・コペルコチア。クラブ方式のスポーツ・娯楽施設。これは創立は古く、戦時中のことであった。
国際農友会。同会については以前どこかで触れたが、この頃はスール・ブラジルとコチアのみの共同事業となっており、組合員の子供の外国研修を実施していた。
なお、先にコチアを「驚くほど大きく…」と形容する言葉が出てきた。たしかに、組合としては、そうであったかもしれない。が、企業としては、そうでもなかった。
事業量は、組合の資料を見ても、急激に高進するインフレの中で(ドルだてではなく)取引時の国内通貨だてで、計上したものを合計してあるだけであり、実際の額は不明である。(つづく)









