ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(339)
こういう犯罪激増を惹き起した根因は、一九六〇年代末、デルフィンが始めた急激過ぎる借金依存による経済成長政策にあった…という説が多い。
確かに、それ以前は、貧しくはあったが、以後に比べると、犯罪発生率は低かった。
なまじ、変に経済成長をしたために一部に富が偏り、貧困層との格差がより大きくなり、それが誰の目にもハッキリと映りだした。人間、貧しさには堪えられても、格差には堪え難い。
しかも、上層部が腐敗し、その情報が穴だらけの器から水が漏れるように、外部に伝わっていた。
「上がやるなら、俺達もやるさ」
彼らは一線を越した。雪崩を打って犯罪に走り出した。
「恨むならデルフィンを恨め!」
強盗たちは、引き上げるとき、こういうセリフを残したという。誰かが作った小咄かもしれないが、これほど鋭く、ことの本質を突いた一言はなかった。
返り咲き運動と阻止工作
既述のデフォルトの翌月に当たるが、一九八七年三月は、コチア産組の定期総会が予定されていた。
この総会で、六年前のケイロウ解任事件から発した導火線上の地雷が、爆発しようとしていた。
地雷は実は、これ以前にも一つ、小さいが鋭い破裂を起こしていた。
二年前、下元健吉夫人が他界した時のことである。
弔問のため、会長のゼルヴァジオが同家を訪れた。それを出迎えた婦人が、こう叫んだ。
「ママイは、死ぬまでアンタが来るのを待っていた。今頃来るのは卑怯ではないか。ママイを殺したのはアンタだ!」
ゼルヴァジオは、黙したまま帰って行った──。
生前の健吉夫人は四年間、ゼルヴァジオの来訪を待ち続けていた。無論、息子の専務解任の理由を直接訊くためである。が、それは、その日まで無かった。
そして今度の地雷は。──
定期総会の役員選挙で、ケイロウを監事にし、本部に返り咲かせようとする動きが生まれていたのである。
それが実現すれば、組合本部で地雷が爆発することになろう。
返り咲かせようと動き始めたのは、北パラナ単協の松原宗孝という組合員で、この時期、組合本部に在って運営審議役と執行理事をつとめていた。
松原は戦前移民で、青年時代、産青連運動で下元健吉の指導を受けたことがあった。そのことから、
「北パラナに、下元健吉の子分だった年寄がまだ生きており、故人の面影をケイロウにダブらせ、判断を狂わせ、その返り咲きを企てている」
という陰口を言う向きもあった。
松原は、後に筆者にこう語っている。
「私がケイロウを監事に推したのは、健吉さんの息子だから…というわけではない。
ケイロウは一九七五年に専務になったのだが、当時、組合は経済的に極めて困難な状態に在った。
ケイロウは、それを立て直した。私はその実績を買った。
ケイロウが専務を追われたのは、立て直しのやり方が厳し過ぎたため、人の恨みを買っていたからだ。
その後、当人も苦労し反省もして、人間的にも円熟した。組合本部には必要な人材であると思ったので、私は推した」
松原は、北パラナや他の単協に、協力を求めた。
その頃、ケイロウはサンタ・カタリーナ州サン・ジョアキンで、りんご作りをしていた。コチアに組合員として属していた。
以下は、当人の話である。
「サン・ジョアキンへ行ってからは、一組合員として、組合経営の在り方を色々、ほかの組合員と話し合った。それは他所へ行った時も、話題にしたことがある。
どこでも一組合員として言ったつもりだが、変なふうに伝わって、サンパウロの会長の耳に入った。
それと、私は専務時代に、組合の経営者は何年かおきに交代すべきである…と、これは一般論としてだが、言ったことがある。それも会長の気に障っていたかもしれない。
『ケイロウは、ゼルヴァジオ・小川追放運動を始めた』と警戒していたようだ。
八七年の選挙の折には、北パラナの松原さんやサンパウロ近郊単協の古くからの組合員が心配してくれた。が、私自身は、監事選の立候補のためには動かなかった」
本人が動かなくても、松原たちのそれは、組合本部を緊張させた。
北パラナは以前と同様、コチアの単協の中では最大勢力であった。他の単協幾つかと組めば、選挙の帰趨を左右できることも、変わりなかった。
ケイロウ当選の可能性は高かった。
監事は、組合の経営から一般業務までを、監査する。かつて執行理事会の専務を務め、経営の裏面を熟知し、しかもゼルヴァジオや小川から裏切られたと思っている人間が、そのポストに座れば、どうなるか?(つづく)









