ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(336)
大合理化で、コチアには陰鬱な空気が漂っていた。
組合員も職員も皆、じっと耐えていた。六年間も。二年や三年ならともかく、六年ともなれば忍耐の限度を越す。
従ってケイロウが去ると、反動が起こった。皆、パッと明るくなった。誰もが走り出したがった。
専務の小川は、その気運に乗じていた。
組合員の希望を、ドンドン実行した。
職員たちに、新しいプロジェクトを作成させた。
コチアの本部には八つの局があり、夫々の局が、新しいプロジェクトを提出した。競い合う様に。
かくして驀進が始まった。
小川は、何故、こんなことをしたのであろうか。無論、求心力確保のためでもあったろう。
大義名分も掲げていた。
「コチアは、組合を核とした企業集団へ発展していく。
政府の農業融資の恩典カット、予算額の大縮小の中で、活路をそこに求める」
理論的には、一個の戦略であった。ただし、あくまで「理論的には…」である。
物事には、常に裏というものがある。
実は職員たちの場合は、次の様な裏があった。
彼らの間では、心理的な変化が起きていた。
「組合は、一個の経済団体であり、組合員さんに奉仕するためにのみ、存在するのではない」
それを会長のゼルヴァジオの前で明言する者すらいた。(ゼルヴァジオは、後に、その時の驚きを表情に浮かべながら、筆者に話していた)
彼らは、古風な組合精神という言葉には興味を示さなくなっていた。仮にそれを「けしからん!」と怒ったら、こう反論したであろう。
「それでは、組合員さんたちに、組合精神はあるのか?」
否定は難しかったであろう。生産物は平然と抜け売りする、しかも、くずを組合に出荷し、良品質のモノは仲買商へ渡す…そういう行為が、蔓延っていた。
だから、職員たちは、新しいプロジェクトを、組合員のためだけでなく、自分たちのインテレッサも加えて、作成したのである。
それを承知の上で、小川は同調していた。
こういう次第で、小川は、事情を知らぬ外部の人間には、不可解なくらい、その人気が上昇していた。組合員、職員の間で…。
もともと人気など出るタイプではなかった。が、八四年の総会における運営審議役の選挙では、なんと、最高点で当選してしまった。毎回一位で当選していたゼルヴァジオは二位であった。
審議役の選挙は、組合員代表が投票するが、職員たちの小川人気も、その代表たちに影響していた。
しかし、小川の、このやり方は金がかかることばかりであった。
それを外部資金にも頼っていた。が、組合の内部資金を充てねばならぬ場合も少なくなかった。
実は、その内部資金が、水道の蛇口を開けっ放しにしたような勢いで、流失していた。
八四年には早くも
「内部資金は底をついた」
と、小川自身、ある審議役に漏らしている。
前任者のケイロウが、懸命になって増やした自己資金を食い潰してしまったのだ。
元々、小川の戦略には、確たる資金計画が無かったのである。
なお、小川は普通「小川さん」と呼ばれていたために、よく一世と間違えられるが、ブラジル生まれである。
一九三六年、十九歳でコチアに従業員として入り、働きながら商科大学を出ていた。
デフォルト!
一九八五年三月、六四年革命から続いていた軍政が終わった。民政が再開された。
政党政治家タンクレード新大統領が誕生した。危機にあるこの国の救世主たり得るかもしれぬ──と期待された人物である。が、一カ月後、急病死してしまう。
後を襲ったのが、副大統領だったサルネイという鼻下に個性的な髭を生やした男である。
これが何もせず、日時を費やした。翌八六年二月に至り、漸くインフレ対策のため、いわゆるクルザード計画を打ち出し、物価を凍結した。(この時、通貨の単位をクルザードと変更)
一方で、ポプリズモ=大衆迎合主義=に走った。最低給与額を引き上げた。
さらに輸入製品が値上がりすると大衆を苦しめるという理由で、為替レートの切下げを遅らせた。これは輸出を大きく減少させた。
さらに大衆の必需品の不足を緩和するという名分で、大規模な緊急輸入をした。
しかし、物価は単に凍結しただけで、根本的対策を施さなかった。ために市場原理の前に自壊してしまう。
その後も、繰り返したが、いずれも直ぐ同じ結果に終わった。
外債問題は、前政権末期、後一歩で好転…という所まで行っていたが、サルネイの場当たり的政策で逆戻りしてしまった。
外債は、八六年末には一、一〇〇億㌦を越した。外貨準備は底をついたままになっていた。(つづく)









