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《記者コラム》〝ブラジル人〟として蘇った武本由夫=「文学の鬼」の見事な死にざま

2024年5月28日

〝無冠の帝王〟武本由夫

武本由夫
武本由夫

 《今後、わたしのような〝物好き〟が現れないと、日本語による〝コロニアの総合文芸誌〟は消滅するかも知れません。さびしいことですが……。いずれにしても、「サラバ、サラバと別れけり」です。どうか、皆さんご機嫌よう》
 19日に行われた武本文学賞授賞式を取材した際、受賞者の大半がブラジル全土から集まった非日系人であるのを見ながら、武本本人が遺書の最後に書いたそんな言葉が脳裏をよぎった。
 日系社会に個人名が刻まれた賞や行事はいくつもあったが、残ったものは少ない。短歌の清谷益次賞、増田恆河ハイカイ賞(ポ語俳句)、俳句なら全伯虚子忌俳句大会、念腹忌全伯俳句大会などはパンデミックを境に姿を消したようだ。
 農業部門の山本喜誉司賞は続いているが、農業をする日系人自体が減少する中で、いつまで続くか分からない。とはいえ、東山農場支配人にしてブラジル日本文化福祉協会の初代会長・山本喜誉司(勲三等旭日章受勲)と比べるのは、適切ではないかもしれない。
 武本由夫には生前に1冊の著書もなく、叙勲や外務大臣表彰などの政府関係からの表彰もない。でもそれがゆえに、むしろ日系文学界においては〝無冠の帝王〟ともいえる存在だと思う。

「武本抜きにコロニア文学の歴史は語れない」

 武本由夫(岡山県出身、1911~1983年)は戦前に『地平線』『椰子樹』、戦後は『コロニア文学』『コロニア詩文学』の創立同人として日系文学の興隆に貢献した。終戦当時最大の発行部数を誇った雑誌『昿野の星』(暁星学園発行)を創刊から第100号まで編集した。戦後、当地で編纂された日本語教科書の専従編集主任として全11巻を作った。
 奈良産業大学の阿尾時男教授は「海外日系人文学研究ノート『ブラジル日系人の短歌』」(同大学紀要、2003年、第19集、1)の中で、《武本の文芸上の功績は、実作者というよりそれ以上に編集者、批評家、文芸指導者、教育者としての面に於いて評価されるべきものが大であって、その人間的な魅力からくる人脈の広さを一助として経営面で苦慮されること多き文芸の灯を、ともすれば出稼ぎ根性が抜けない所謂「一旗揚げて故郷に錦を飾る」という意識が横行していたコロニアの土壌で実によく守り抜いた点にあろう》《コロニアに於ける文芸人は、当然のこと文芸以外に生活を他の職業によって成り立たせてきた。武本は、人生の節々でこれで良いのかと自問することを繰り返しながらも、結局、文芸以外の生活を意志的に拒否することを彼自身に課したのだった。コロニアの文芸にのみ情熱を燃やして一生を送るという、誠に潔い見事な生涯であった》と書いている。
 『日本ブラジル交流人名事典』パウリスタ新聞社、五月書房、1996年)には《「武本抜きにしてコロニア文学の歴史は語りえない」といわれる存在》(148頁)とまで書かれている。
 1966年、鈴木悌一と武本由夫が中心になってコロニア文学会が創立された。と同時に文芸誌『コロニア文学』の刊行を始めた。最盛期には約700人もの会員を獲得するに至った。だが、ブラジル経済はハイパーインフレを起こし、1977年に廃刊のやむなきに至った。
 武本由夫は文芸活動を再興するべく、同志を集めて1979年に『コロニア詩文学』を創刊した。彼は第10号まで発行したとき病で死を予感し、亡くなる50日くらい前に安良田済に『コロニア詩文学』を託し、1983年1月21日に死去した。
 安良田済は、文学的功績を永久に表彰するために1983年に「武本由夫文学賞」を創設した。現在ではコロニア文学界の最も権威ある文学賞として認識されている。

受賞者と審査員、主催者の皆さん
受賞者と審査員、主催者の皆さん

文学賞には約1千件の応募総数で過去最高

 「過去最高の応募者数で審査員の皆さんは苦労されたと思います。当会は創立58年、その刊行物『ブラジル日系文学』の半分以上のページはポ語になりましたが、我々の生活の中で、文学の役割を考えるという位置づけは変わっていません」――ブラジル日系文学会(桜井セリア会長)は19日午後2時から、第38回武本由夫文学賞授賞式をサンパウロ市リベルダーデ区の静岡県人会館で開催して約100人が出席し、桜井会長はそうポ語で挨拶した。

武本憲二元会長、桜井会長、ハイカイ部門選者の井浦エジソンさん
武本憲二元会長、桜井会長、ハイカイ部門選者の井浦エジソンさん

 今回の同賞への応募総数は979件。内訳は俳諧259件(1295句)、詩463件、コント(短編小説)160件、クロニカ(随筆)160件。受賞作は3月発行のブラジル日系文学会誌75号、7月発行の76号、11月発行の77号で順次掲載される。
 入賞者をみると大半が非日系人だ。この賞は、ブラジル社会に根付いた文学賞として定着していることが分かる。
 ゲスト講演では、ジャブチ賞受賞者作家で編集者のラケウ・マツシタさんが「物書きは常に誰かに読んでもらいたいと思って書いているが、なかなか発表の場がない。このようなコンクールは作家を目指すものにはすごく意義深い。私は作家として行間を大切にしている。そこは、読者が自分の推測や気持ちを挟み込むスペースだからだ」などとアドバイスした。
 4人の日系女性によるバアチャンとの思い出を綴った共著『Vovó veio do Japão』(Companhia das Letrinhas、2018年)についても、「私たち日系3世世代が書くものには、必ずバアチャンが語り部として出てくる。私はバアチャンに教えてもらったかぐや姫の話がとても印象深かった」と日系人としての出自をプロの経歴に生かしている様子を述べた。
 短編小説部門で1位となったジョゼ・アルベルト・ロペスさん(南麻州在住)に受賞コメントを聞くと、「2009年から武本文学賞に応募し、4~5回入選している。ハイカイから初めて、詩も書くようになり、今回は短編小説で1位をもらい、すごく励みになっている。今までの作品を集めて本を出版しようと計画している。この賞のおかげで自分の世界が広がったと感謝している」と笑顔を浮かべた。
 ハイカイ部門で入賞したジョナス・ヘイスさん(エスピリットサント州ビトリア在住)は「初めて応募して入選でき、とても幸せな気分。ハイカイの世界ではとても権威ある賞なので、本当にうれしい」と語った。
 日系文学誌ポ語編集委員の近藤アンドレさんに、応募作が多い理由を聞くと「文協文芸委員会と協力してSNSなどで広く宣伝している。地方都市主催など多くの文学コンクールがある中で、武本賞も知名度を得てきている。初心者からかなり有名なベテラン作家まで、今回短編小説部門で入選したラゴ・アルベス・ブランキーニョさん(リオ市在住)のように17歳の新人から高齢者まで多彩な応募者がいることも特徴だ」と説明した。
 大太刀ミリアン合唱団40人が「ふるさと」「春の小川」「鯉のぼり」などの童謡を披露し、日系イベントらしさを演出した。その音楽を聴きながら、武本由夫の次男の憲二元会長に感想を聞くと、「かつては日本語中心で一世が高齢化して先細りしていた日系文学だったが、ポ語に路線変更してから急に若返って活動が活発化した。父の名前がブラジル社会の文学界に知られるようになって本当にうれしい。この賞は、父が残した一番大事な宝物です」としみじみ語った。

1990年6月、『コロニア詩文学』十周年記念号に掲載された遺書「お別れのことば」
1990年6月、『コロニア詩文学』十周年記念号に掲載された遺書「お別れのことば」

武本由夫のすがすがしいまでの死にざま

 死期が迫っていると感じた武本由夫は1982年10月15日、自らの誕生日に遺書《お別れのことば―妻子とそして友人たちへ―》(約7800字)をこっそりしたため、死後、「ブラジル詩文学」に掲載された。その一部を抜粋する。
 《今日は、一九八二年一〇月一五日である。朝の空は少し曇っていたが、やがて晴れると思う雲行きを見せている》
 《わたしが、この稿を起こしたのは、最近身体的状態について思うとき、今後、それ程長く命脈を保つとは思われぬ症候を自覚したからである。ペンを執るだけの気力、体力の残っている間に、書き残すべきことは書き残しておきたいと、思ったからにほかならない。言えば、一片の〝遺書〟ともいえようか》
 《ただ、この世に生きてきたことが、自分として納得のいくものでありたいと思う。一日一日を、一年一年を、「自分は、自分としてせい一杯生きてきた」という実感を把握しながら、生きていくことが、最も大切ではないかと思う。
 わたしは、この〝生きていくことに意義を認めて、今日まで生きてきた〟と言うことができる。つまり、生きてきたことに、一つも悔いは残っていない。
 従って、死ぬことにも、さらに未練はない。(中略)
 こういう人生に対する気持ちは、早くから持っていた。ブラジルに移住したのも、結婚して子らをもうけたのも、そして死んでいくのも、わたしが生前から持ってきた〝運命〟である。誰からも与えられたものでも、自分で作ってきたものでもない。運命に従って、素直に生き、素直に死んでいくということである》
 《わたしも、また子供たちも、みな平凡であって、何のとり柄もない、ひろい意味での庶民ということである。
 わたしは、早くから、自分の〝分際〟を識っていた。下手に高い理想を掲げて、及ばぬ鯉の滝昇りなど敢行する気持ちを持ったことはない。怠惰といえば、まったく〝怠惰〟な人生であった。自慢にも、手本にもならない、大過なく七二年の人生を過ごし得ただけでも何ものとも知れない、大いなる存在に感謝を捧げている。
 他人に誇るに足る才能も持たず、財といえる物質は何一つ持たず、生涯を裸一貫で送って来た。この満七一才の誕生日に当たって、〝生きたい〟とも願わず、〝死にたい〟とも思わず、静かに人生の終焉を持ちたいと思っている。
 どうも、長い間お世話になりました。わたしは、この辺で〝おさらば〟いたします。(中略)
 わたしは、トンマで、単純で、どこか崩れている。行動にけじめがなく、ともすれば行き過ぎる。身を滅ぼすまで酒を飲む。体をこわすまで煙草を吸う。大切な約束も忘れてしまう。自分ながら困った奴だと思い思い生きて来ました。これという立派なこともできなかったが、悪事といわれる程のこともしなかった。いや、できなかった。まったく「チン香も焚かねば、屁もひらず」という、平凡な生涯でした。
 しかし、自身では、清々しい一生であったと思っています。今日は満七一才を迎えた日です。何時でも「ハイ、サヨウナラ」と手を振りながら、旅立っていく心境です》
 《この世はまことにシンドイ世界ではありますが、また楽しいことも多い世界でした。泣いたり、笑ったり、悲しんだり、怒ったりしたことも、有難く、うれしい思い出です。
 おかげで、というのかどうか、わたしは、まったくの無一文で、物質は何一つこの世に残して行きません。裸一貫ですから、まことに清々しく大変身軽な旅立ちです》
 これを書いた約50日後、1983年1月21日、武本は病没した。死に際をわきまえた、実に潔く、すがすがしい死にざまではないか。

授賞式の様子
授賞式の様子

〝ブラジル人〟に生まれ変わった武本由夫

 死後すぐに武本文学賞が創設され、没後20年の2003年1月に武本を慕う友人らは東洋街のアラメダ・ジュニオール広場に歌碑を建設し、『武本由夫著作抄』を刊行した。その除幕式の際、故人を兄と慕う安良田済さんがあいさつし、武本を「文学の鬼」と称し「その文芸活動に賭けた強烈な意志と情熱」を称えた。死後20年経ってそのように顕彰される人物は少ない。
 武本文学賞は日本語応募作減少という流れに勝てず、2019年にいったん終了した。同年3月26日付ニッケイ新聞(2)によれば、〝最後〟の授賞式で短歌選者の小野寺郁子さんは《この賞がなくなるのはとても寂しい。立派な足跡を残された皆さん、ありがとうございました》、中田みちよ会長(当時)は《ポ語の方々に渡していくのが私の役目。ここから再出発》と話していた。そしてコロナ禍となり全ての活動が休止した。
 ところがパンデミック後、2023年にポ語作品だけの武本文学賞として復活を果たした(3)。ある意味、〝日本移民〟としての武本は亡くなり、〝ブラジル人〟として生き返った。パンデミックを機になくなった日系活動も多い中、なぜか武本文学賞は蘇った。命運を分けたのは何か――。
 〝ブラジル人〟として復活した武本は、きっとあの世で「これも私の運命」と受け入れていることだろう。生涯「無冠」の武本にとって、「武本文学賞」の存続こそが人生最大の功労賞では。(一部敬称略、深)

第38回武本文学賞

【ハイカイ部門】 1位Gisela Maria Bester PR/2位Jô Marcondes PR/3位Madô Martins SP
【詩部門】 1位Elias Antunes DF/2位Maria Helena Furquim Lanza Alves PR/3位Igor dos Santos Mota BA
【短編小説】 1位José Alberto LopesMS/2位Thaís Lyn MS/3位Benício Gon MG
【随筆】 1位Solange Firmino RJ/2位Paulo Roberto de Oliveira Caruso RJ /3位Evaristo Souza Soares BA 

 

(1)https://core.ac.uk/download/pdf/76207821.pdf

(2)https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190326-71colonia.html

(3)https://www.brasilnippou.com/2023/230429-23colonia.html


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