《寄稿》こんなにも崇高、古き良き日本=小泉八雲が描いた日本文化の神髄=サンパウロ市在住 毛利 律子

2025年9月29日から始まったNHK朝ドラ「ばけばけ」の主人公はパトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲・1850年- 1904年〈明治37年に狭心症で死去。54歳没〉)。アイルランド系・ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者)と、その妻小泉セツ(1868年- 1932年〈昭和7年〉)の一代記である。時は、江戸の武士の時代から文明開化明治の激動の転換期であった。
八雲と妻・節子
主人公ハーンの父はイギリス人で軍医、母は裕福なギリシャ人名士の娘であった。幼少期はヨーロッパ(特にギリシャ、フランス、アイルランド、イギリス)で過ごした。母が精神病になり両親は離婚し、父は後に再婚した。ハーンは3人兄弟の次男であった。ハーンは大富豪だった大叔母に引き取られる。叔母は厳格なカトリック教信者で、その教えを強いられて逆にキリスト教嫌いになり、ケルト神話や土着信仰に興味を引かれるようになった。
16歳の時、遊具の回転ブランコのロープの結び目が左眼に当たって失明。以後左眼の色が右眼とは異なるようになったため、写真は右側からのみ撮らせるようになった。父が西インドから帰国途中に病死。大叔母の破産を受けて、19歳でイギリスから移民船に乗り渡米。得意のフランス語を活かし、ジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博すようになった。
『古事記』の英訳版を読み、1884年(明治17年)のニューオリンズ万国博覧会に行ったことから日本に興味を持ち、1890年(明治23年)に来日。新聞社との契約を破棄して、40歳で松江の英語教師となる。ハーンは住み込み女中だった18歳年下のセツと結婚(再婚)。家族のために1896年に日本国籍を取得し「小泉八雲」に改名した。
妻のセツは、出雲松江藩の家臣小泉家の次女として生まれ、親戚の稲垣家の養女となる。子供の頃に稲垣家が没落して節子は11歳から生家の機織会社で織子として働いた。18歳の時に婿養子を迎えて結婚したが、夫は貧しさに耐えられず家出。22歳で正式に離婚し、小泉家に復籍する。家計を支えるため松江の英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン家の住み込み女中となり、のちに結婚。夫・八雲の日本語の理解を助けるとともに、日本に関する八雲の執筆活動を支えた。八雲との間に三男一女をもうけ、八雲の死後に、八雲との思い出をつづった「思い出の記」を著した。
日本語がほとんどできなかった主人・八雲の作品制作の陰には節子の力が無くては達成できなかったことは明々白々である。

日本文化絶賛の書・『日本の面影』
島根に定住する前のハーンが、1890年から1893年にかけて初めて日本を訪れ、心を震わせた印象的な日常の生活を写した本が、『 Glimpses of Unfamiliar Japan(未知の日本を垣間見る)』『新編日本の面影』である。それは、ハーンが日本文化について初めて出版した著作でもある。その後、彼は毎年1冊ずつ本を出版し、1904年に東京で死去した翌年の1905年に、『天の川浪漫とその他の研究と物語』(The Romance of the Milky Way and other studies and stories)を出版した。
『未知の日本を垣間見る』はもともと英語で出版されたが、後に日本語やポーランド語を含む複数の言語に翻訳された。原著は2巻に分かれていたが後に1巻にまとめられた。
日本の陶芸と「古き良き日本」を愛好したことで知られるバーナード・リーチ(1887-1979)は「日本について書く外国人作家は少なくない。しかし、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の前後を問わず、これほど美しい文体で、これほど理解と観察力と深い洞察力をもって、日本の風景への心からの愛情に基づき、日本の美しさや日本人の心を描き出し、日本を紹介した文学者はいない」と感嘆する。
ハーンは「この国をちらっと見ただけですが」と謙虚に語り始めるが、この書全体にはかつて日本人が持っていた美質、「精神性の豊かさ」、庶民の「並外れた善良さ」「辛抱強さ」「素朴で、察しの良い日本人の振る舞い」といった風俗や風景が瑞々しく描かれた紀行文学の最高傑作と称されている。
一度でもこの書に接した人は誰でも、ハーンほど、これほどまでに愛情深く、且つ、透徹した目で、日本の風景、風俗、庶民を観察し、美しい日本語で綴った作家が他にいるだろうかと、感激するであろう。
特に最後の章「さようなら」では、島根県で3年間英語教師として勤め、いよいよこの神々の国を去り熊本に転勤するときのハーンと学生たちの交換の場面は、涙無くしては読めない。感慨無量の章である。

涙の「さようなら」の章
島根師範学校で在職中に、多くの生徒や教師を二つの災禍で亡くした。一つは戦争であり、もう一つは中国船から持ち込まれたと見られる、突然猛威を振るったコレラであった。一人の生徒は、自分を見舞ってくれた校長に向かって、最後の力を振り絞り、肘を挙げてお礼の敬礼をした。生徒は次の日に埋葬されたのであった。
ハーンが次の赴任地、熊本に向けて松江を去ったのは1891年(明治24年)10月15日のことであった。旅立つ日には、コレラ感染を恐れて見送りを断ったにもかかわらず、ハーンの家の前に約200人教師と生徒が集まった。そして、全員が船着き場まで行列した。船着き場にも、すでに多くの人が待っていた。
ハーンは旅立つにあたり、万感の思いを込めて次のように記す。
「もしどこか別の国で、同じ期間、同じ仕事をして暮らしたとして、これほどたゆまぬあたたかな人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか」
時、まさに明治の西欧近代化への転換期に目撃した「古き良き日本人とその文化」の神髄とは
16世紀半ば、1543年に種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こる。そして6年後、フランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動が始まる。それから1853年まではオランダ市場のみに限定されていた西洋世界との貿易障壁が、明治時代が始まったことで、状況は一変した。
この書の「はじめに」において、ハーンは次のように語る。彼の指摘することは、今日の現代社会が失いつつあるものと危惧する事柄であるが、それらをいくつか取り上げて紹介したい。
「仏教、神道、民間伝承など、土地と人々の謎めいていて興味をそそられる風情は、『西洋の汚染』から逃れた古代文明を思い起させるのである・・・その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである。その魅力は、喜ばしい昔ながらの慣習、絵のようにあでやかな着物、仏壇や神棚、さらには美しく心温まる先祖崇拝を今なお守っている大衆の中にこそ、見出すことができる」
「日本の生活にも、短所もあれば愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だがよく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的とも思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ(真心がこもっていて、礼儀正しいこと)、素朴な心、相手をするに思いやる察しの良さに、目を見張るばかりである」
「日本人の屈託のない親しみやすい迷信が、どれほど日本人の生活に妙味を添えているかは、その中にどっぷりと浸かって生活してみれば、実によく理解できるであろう・・・だが、こうしたものも、公の教育の普及によって急速に消えつつある。・・・数多くの美しい光景は、すべて迷信と言われている想念から生まれ出でてくるものであり、その想念が『万物は一なり』という崇高な真理を、きわめて単純な形で繰り返し説いてきた賜物である」
そして、今日の世界情勢や日本社会の現状に少なからず不安を抱くものにとっては、ハーンの次の論評が最も印象的である。
「まことに残念なことに、近代日本の批評精神は、日本人の素朴で幸せな信仰を破壊し、それに代えて、西洋の知性ではもうとっくに廃れてしまった、あの残酷な迷信―許さぬ神と、永遠の地獄とを心に抱かせようとする迷信―を弘めようとする諸外国の執拗な試みに、対抗するどころか、間接的に加担している・・・美徳の実践、汚れなき生活、信仰の儀礼において、日本人はキリスト教徒をはるかに凌いでいる。開港都市のように、本来の道徳律が外国人によってはなはだしく犯されている地を除けば、この言葉は、今でも日本人に当てはまるといえる」
以上のようにハーンは、日本文化に魅了され、その結果日本に定住し、帰化し、近代化と西洋化によって脅かされている東洋世界の価値観の擁護者とならんとする意思が明確に表明した。
最後に『日本の面影』が、どのように展開していくか。各章の題名のみを列記して紹介したい。余談だが、ハーンは少年期に左目を失明したせいか、音には極めて敏感で、様々な日常の「音の風景」が描かれ、まるで遠き昔の情景が美しい言葉で、水彩画のように描かれているのである。
たとえば「東洋の第一日目」で、1890年4月に到着した横浜を巡り、日本の第一印象を描く中で、ゲタのリズミカルな音に着目している。
「カラン、コロンと左右が微妙に違う足音を立てる。だから、道行く人の足音の響きは、そんな二拍子のリズムが交互に繰り返される下駄の音が、今や、とても懐かしい響きではないか。
●極東第一日目―
来日直後の当時の印象が、実に美しい風景画のように描かれている。
●盆踊り―
仏教よりも古い歴史があり、血の通い合う盆踊りが、世代を超えて伝えられる秘密が語られる。
●神々の国の首都 ―
松江の魅力を活写した作品であり、ハーンが感じた音の風景や宍道湖の美しさが綿密に魅力的に描かれ、その地を訪れたいという気をそそられる文章に圧倒されるのである。
●杵築(きづき)―日本最古の神社
西洋人として初めてハーンが出雲大社の本殿昇殿を許された体験が記されており、日本の神聖な場所への感動が綴られ感動的である。
●子供たちの死霊の岩屋で―加賀の潜戸(かがのくけど)
いまだかつて知らなかった山陰の歴史である。想像を絶する自然の造形に纏わる、幼くして死霊となった子供たちへの挽歌の章である。
●日本海に沿って
伯耆の国(ほうきのくに・鳥取)を出て、日本海に沿う道中で聞いた物語がおどろおどろしくも、哀切に満ちた迷信噺と、河童の話が興味深い。出雲地方への深い愛情が全体に表現されており、松江は「知られぬ日本の面影」の舞台として重要な場所として設定されていることがよく理解できる。
●日本の庭―
武家屋敷の庭について詳細に描写されており、日本の庭園文化への造詣の深さに圧倒される。「庭」の歴史、仏教説話に似た、読み始めると止まらない好奇心に駆られる物語であるが、付録の「庭」の解説の面白さには、深く感動する。
ここまでの章は、ハーンの目に写る景色を、眼前に見るかのように、詩編のごとき言葉で、鮮やかに甦らせてくれるのだ。しかもその視点は、日本の日常にある美しさを、次々に思い知らせてくれる。横浜、松江、哀しい伝説の加賀の潜戸への難所越え、魂と触れ合うかのような「盆踊り」、せせらぎの清い水音や、出雲大社参拝の荘厳さである。
●英語教師の日記から―
この章は、教養教科書として必読と思う。実際に読むことをお勧めしたい。
次いて、
●「日本人の微笑」の章―
ハーンの日本人の心の機微と国民性洞察の極めつけともいえる章である。
八雲は、日本人以上に日本を深く理解したと言われ、その美しさと温かさに満ちた、日本の魂を「微笑」と謎かけて世界に知らしめたと言えよう。
そして最後の章はすでに紹介した「さようなら」の章である。
読みながら感動にむせり、心が洗われる思いがした。日本語の言霊の美しく、深く強い力に圧倒された一書である。
【参考文献】
『新編 日本の面影』 ラフカディオ・ハーン、池田雅之訳、角川ソフィア文庫、平成25年