ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(296)
スールの専務中沢は、同じ産組経営者として、下元の「篩にかける」狙いに気づいたのである。
コチアから飛び出した組合精神に乏しい連中が、一斉にこちらに向かって来ていると驚き「入会には当分、厳重なる制限を…」と、発表してしまったのである。
が、これは組合員や従業員を混迷させた。
何しろ、それまでは事業戦線を州内全域、さらに州外へ広め「グングンと伸び行くわが組合」と、誇っていたからである。
それを納得の行く説明もなく一変したのだから、混迷は当然で、士気を沮喪させ、すこぶる不評であった。
これには中沢も(シマッタ!)と思ったようで、直ぐ販売場所の増加、新倉庫の確保の手を打ち、
「新入組合員、歓迎します」
と月報で訂正した。
コチアを出た組合員はバンデイランテ産組にも移動した。
一九五〇年代後半、スール、バンデイランテの組合員の増加ぶりは、それ以前に比較、急なものとなっている。
特にスールは五〇年代末には三、〇〇〇人を超した。五年前の一、〇〇〇人に比較、三倍増である。
対して、コチアは漸増していたが、やはり五〇年代末で六、〇〇〇人ほどであった。五二年に五、〇〇〇人であったから、伸び率が緩慢である。(右の組合員数の変化は、他の要因も影響していた)
下元は(一九五七年に急逝しているが)それでよし、としていたのではあるまいか。
コチア青年を組合員のところへ配すれば、その労働力の分だけ、雇用主は植付け面積を広めるわけで、生産量は増えることになる。
組合の事業量も同じである。
当時、コチアの本部に勤務していた人は、こう語る。
「具体的数字は覚えていないが、組合の入荷量は、コチア青年が入り始めてから、驚くほど増えた」
奇策は、成功したのだ。
因みに、五〇年代末、コチアは四州に事業地域を広め、事業所も四十三カ所に増やしていた。
スールは三州二十カ所に出張所を置いていた。
ただし事業量を金額で表すと、右の数字の比率よりスールの方は、ずっと少ない。取扱い生産物の種類の違いによる。
因みにバンデイランテと産組中央会は、スールに次ぐ事業量であった。
なお、サンパウロの人口は一九五〇年の二二〇万が、六〇年には三七〇万となった。その後も勢いは止まらず一、〇〇〇万都市へ拡大して行く。周辺も衛星都市化した。
農産物の需要は増え続けた。
諦めていなかった新社会建設!
下元健吉は、戦前、産青連運動で叫んだ「新社会の建設」を、戦時中も追求していたし、戦後もそうであった。
産組の再編成・一本化という戦略は挫折したが、新社会建設そのものを諦めたわけではなかった。コチアだけでも、それを再追求しようとしていたのである。
前記したジャグァレーで四万二、〇〇〇平方㍍の土地を買って建設した肥料や飼料の工場は、いずれも国内の業界では「大」の規模であった。
肥料や飼料を自給し、組合や組合員の資金の外部流失を防ごうとしていた。さらに生産量に余剰が出れば、外部にも売ろうとしていた。
これも戦時中に推進した施設拡充の継続であり、新社会建設の階梯であった。
またコチア青年の導入は産青連の盟友に代わる建設部隊を育てる狙いもあったという。それを筆者は当時を知る元職員から聴いた。
ただ下元は、青年にその構想を話すことはなかった。理由は、
「どんな青年が来てきているのか、くるのか判らなかったから」
であったという。
詳しくは後述するが、青年の中に失格分子が混じっていることが露見していたのである。
全体的にはどうであるか、よく見極めてから話すつもりであったのであろう。
しかし下元は、青年導入の二年後には故人となってしまう。
これは、当人にとっても青年にとっても、最大の不幸であった。
下元が、どんな新社会を構想していたかは、六章で記したが、なお、詳しく当人自身が語った資料がある。組合の機関誌『農業と協同』の一九五七年九月号に、それが掲載されている。
彼の死の直前の言葉だ。
以下は、その一部要旨である。
「百姓を何十年やっても、大儲けした人は少ない。ファゼンデイロになった人も居ないではないが、千人か万人に一人の幸運者である。
地方を歩いてみると判るが、金持ち、大地主といわれる様な人で、農業のみで今日をなしたケースはない。農業から逸速く足を洗い、百姓を搾取する中間商人になった人である。
農業で金を儲けることは容易ではない。中間商人の搾取の結果である。(百姓は、もっと)高く売り安く買わねばならない。
さて、その道は何処にあるか。産業組合により共同の取引をする以外ないのである。
現代の社会制度は、資本主義社会であり、大資本家、大企業は大きな力を持っている。経済力を持たない者は資本力の強い者に服さなくては生活できない。(つづく)









