ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(345)
話を戻すと、スールがグァルダ・モールで、銀行の不正流用によって、巨額の債務を抱え込んでしまった八八年。
富森敏雄理事長の自宅に強盗が押し入った。富森は拳銃で撃たれて、重症を負った。弾が心臓のそばまで食い込み、命が助かったのは奇跡的であった。手術をすると危険が伴うので、弾はそのままにした。
富森は壮年期までは、組合の女子職員の憧れの的となるほどの美男子であった。が、この頃は、その面影を失い、老化が目立っていた。無論、経営の苦心のためであったろう。
それに、こういう事件が重なっていた。
やはり八八年、八年前からプロデセール(第一次)に参加していた山本勝造が、ミナス州パラカツでの、その農場経営を投げ出した。
入植以来、大豆を主に穀物類を植えていたが、ここも、他と同じ事情で、資金繰りが逼迫、勢いホット・マネーに頼ることになり、金利負担が総収入の五〇㌫に迫るほどとなった。
その後、山本は自己資金を注ぎ込んで増資、借金の一部を清算、金利負担を二〇㌫まで軽減させた。
しかし、八六年以降、二年連続のベラニコ(雨期中に発生する日照り)による穀類の収穫不良もあり、再びホット・マネーに頼ることとなり、金利負担を逆戻りさせてしまった。
もはや打つ手なし…の心境であったろう。
経営は南米銀行が肩代わりをした。
同じパラカツにあるコチア青年農牧会社のムンド・ノーボ農場も、財務は泥沼状態に陥っていた。
こちらは元々、自己資金で経営していたが、それが不足し、ホット・マネーに頼っていたところへ、金利狂騰に見舞われた。
コチアに限らず、セラード戦線は、どこも壊滅しつつあった。
アサイ紡績工場でも騙される
そうした中、コチアは紡績工場の建設も、一九八七年から始めていた。場所は北パラナのアサイである。その町外れに工場は建てられた。
この紡績工場は、当時、外部の事情通を驚かした。南銀会長の橘富士雄などは、アグロ・ナッセンテ誌の記事で、それを知り、顔色を変えて心配していたものである。(なお、橘はこの時期、会長になっていた)
しかし組合側は自信満々で、ある運営審議役は、
「プロジェクトは三年も前から練り上げてきており、これ以上、素晴らしいものはない、と言われるほど」
と、自賛していた。
が、机上の名案と現実は別である。結果的には橘の危惧通りになる。
この紡績工場の経営が行き詰まった後で、プロジェクト決定当時の一役員(二世)から聞いたところでは、そこに至る経緯は、次の様なものであった。
「当初、投資資金六、〇〇〇万㌦は全額、パラナ州開発銀行から長期・低利の融資が出るということで、同行側との話がついていた。
その開銀の融資資金は、連邦政府から来ることになっていた。
投資資金のほかに、運転資金として、その二〇㌫相当分を同じ条件で出してくれるという話で、それなら借りなければ損だというのが、組合内部の空気だった。
さらに操業開始後の、商品流通税の免除の約束が州知事からあった。
ところが現実には、融資が実行されたのは、投資資金の内の二、〇〇〇万㌦相当分の国内通貨のみで、それも、その実行が遅れに遅れた」
ここでも、またも「融資実行の遅延」である。
二〇㌫の運転資金の方は空手形となった。
商品流通税の免除を約束した州知事は、それから間もなく選挙で落選した。
が、プロジェクトは中止されることなく──不足資金は商業銀行からの借入れで賄われ──継続された。その借入れがホット・マネーであった。
その点について、右の役員は、こう語る。
「この件は、最初にコチア側が、プロジェクトをパラナ開銀に提出する。それが承認される…その後、融資契約が(六、〇〇〇万㌦相当の)国内通貨だてで結ばれる…という順序で進んだ。
が、その融資の実行が遅れ、その間、インフレが進み、融資金額はドンドン目減りしてしまった。
契約にはコレソン・モネタリア=通貨価値修正=は盛り込まれていなかった。
そういうことであったけれど、小川さん(専務)は、工場の建設は始めるワ、機械は発注するワ、機械の輸入契約はするワ…。
こちらの支払いは、当然コレソン・モネタリアつきで、契約違反の場合の条件も明記されていた」
当時、局長であった小笠原シゲアキ(二世)も、次のように話している。(つづく)









