ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(268)
買い付け資金は、日本政府から前金で渡されたという。かなり大きな額であったようだ。
ところが、一九四一年十二月の日本の対米英開戦、翌年一月末のブラジルの対日国交断絶で、買い付けても日本へ送出できなくなった。
買い付け資金の内の未使用分は、そのまま宙に浮いた。
これを御三家側が流用して…云々という話があった。
戦中・戦後の円売りに関して、繰り返しミステリアスにクローズ・アップされた「当時、邦人社会に存在した巨額の円」というのは、この軍需物資買い付け資金のことではあるまいか。
流用の詳細は不明である。様々な説のみが伝わっている。
が、円と言っても円紙幣ではなかったであろう。円紙幣がブラジルで通用する筈がない。
日本政府の資金であったため円と表現されたのではあるまいか。
サンパウロ新聞の水本が、自身の円売りが事件化しかけた時、
「御三家だって(ケシカラン事を)やっているではないか」
と開き直ったという話もある。
実は当時、パウリスタ新聞が、水本の円売りを、彼の名前を出して、紙面で攻撃しようとしたことがある。が、水本が、こう反撃に出ため、彼が御三家のそれをサンパウロ新聞でバラスと、日本政府まで巻き込んで、事が大きくなり過ぎるということで、問題化は中止した。ために水本は、潰されなかった…サンパウロ新聞の社長を続けることができたともいわれる。
次の様な事実もある。
一九五二年、日本とブラジルの国交が回復した。その時、日本大使となって赴任してきたのが、ナント前東山総支配人の君塚慎であった。外務省の役人ではなく、民間人の君塚が起用されたのは何故か。
何か特別な事情があった筈だ。
君塚が起用されたのは、山本喜誉司が、一九四九年に訪日して、吉田首相に運動したためである。これは山本喜誉司評伝が明らかにしている。
当時、日系社会は、終戦処理に関しては種々のデリケートな問題を抱えていた。それをうまく処理するためには、大使が事情に疎い外交官では意思疎通に不安がある。
そこで開戦前ブラジルに勤務、日系社会の指導者格の人々とも親しくしていた君塚の起用を…ということであったろう。
そのデリケートな問題の中に、この軍需物資買い付け資金の流用問題が含まれていた、と筆者は観ている。
吉田首相は、山本の運動に応え、君塚の起用を外務省に指示した。そして、流用問題は、君塚を介して日本政府との間で、何らかの方法で処理された…。
ずっと後年、筆者が南米銀行の役員に、
「アノ軍需物資の買い付け資金の件では、日本政府との問題をチャンとした手続きを踏んで処理したんでしょうね」
と念押しすると、
「したよ」
という返事が返ってきた。
吉田首相は、後年、ブラジルに招かれ、関係者から懇篤な接待を受け、カンピーナスの東山農場にも招かれている。
水本の個性も影響
それと、もう一つ、円売り騒動が実態からかけ離れて行ったのは、新聞社という半ば公的機関の社長で、しかも特異な個性の持ち主である水本光任が絡んでいたためであろう。
水本という人は、強烈な個性の持ち主であった。
極端な二面性があった。一方では善良で親分肌というイメージを人に与えた。それがニコニコと人に接する時は、相手を魅了した。
ために彼を慕ったり親しく付き合ったりする人間もいた。
が、他方では善良とは逆のイメージがあった。また、怒ると不気味なほどであった。彼を徹底的に嫌う人間もいた。(つづく)