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ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(271)

2025年10月22日


以下は、再び遺族の話。━━

多田は逮捕された時、警察署長から、

「日本が戦争に負けたことを認めるという内容の書類に、署名をすれば、釈放される」

と教えられた。

多田がガルサへ送られた後、一九五二、三年頃、その妻は子供たちを連れて、同地へ移り住み、夫に何度も面会をし、

「子供たちも学校へ行く年頃で、困っているから、署名して下さい」

と懇願し続けた。

結局、多田は署名をして出所した。すると、仲間もそれに続いた。

多田は出所後、ガルサの町に住み、洋服仕立て業を営み、後、サンパウロに移った。

昔のことは何も話さなかったが、一九六七年、日本から皇太子夫妻(平成天皇・皇后)がサンパウロを訪問した時、前記の手記を献上しようとした。が、果せなかった。

一九七六年、六十七歳で没。

山岸たちが、どうなったかについては資料を欠く。


桜組挺身隊


国民前衛隊事件の表面化から三年後の一九五三年の五月、桜組挺身隊という、奇妙奇天烈な集団が現れた。

朝鮮戦争が終わる少し前のことである。

当時、米国が国連加盟国に義勇軍の派遣を要請していた。

ブラジルでは反対の世論が強かった。ところが、北パラナのロンドリーナで、これに応募しようとする動きが起こった。起こしたのはブラジル人ではない。日本人であった。

これが「桜組挺身隊」で、義勇兵の志願者を募集、ロンドリーナ市長や首都リオ・デ・ジャネイロの陸軍大臣宛に、自分達を朝鮮へ派遣するよう請願書を送った。

さらに幹部がリオに行き、陸軍大臣に面会を求め、門前払いを食わされた。

朝鮮戦争は七月に終ったが、桜組は隊員の募集を続け、入隊費(二〇〇クルゼイロ)を徴収していた。

募集係は「義勇兵として派遣されれば、無料で日本へ帰れる」と説明していた。勧誘の対象は、祖国の戦勝を信じる邦人たちであった。

しかし一向に、その帰国が実現しないのに不審を抱いた入隊者が、サンパウロの日本総領事館に訴え出た。

総領事館は帰国詐欺の疑いを抱き、一般に警告を発した。

これが同年九月であるが、それと前後して、桜組の隊員とその家族多数が、ロンドリーナから(サンパウロの南隣りのムニシピオ)サント・アンドレーに移動した。

ビラ・ウマイタという地区にあった石井養鶏場の鶏舎三棟を借りて、共同生活を始めた。

桜組の中心人物は、吉谷光夫という男だった。四十七歳、長崎県人で、色浅黒く、精悍な顔つきであった。非常な雄弁家でもあった。

実務は天野恒雄、林田治人ら幹部が指揮していた。(つづく)


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