ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(215)
この人々とは初対面であった。外国で暮らす同胞として、蒸野の窮している様子を見ての心使いだった。
ただ、こういう具合であったため、日高たち同志との連絡は切れてしまった。
サンパウロ市内、五月の末。
四人の新たな襲撃目標は、今度は自分たちで相談、脇山甚作大佐と決めた。終戦事情伝達趣意書の署名者、日系社会の指導者格の一人であった。
居場所も警備の人間が居ないことも、協力者たちの調べで知ることができた。
しかし、この時点では「警察の狩り込みで大勢の邦人が冤罪で被害を受けている。それが同じ日本人の密告によるものが多い。さらに襲撃事件が飛び火している」ということが判っていた。
全く予想外の展開だった。
そこで、
「これを最後にして、自首しよう」
と話し合った。
六月二日、夕刻。
吉田和訓、北村新平、山下博美、日高徳一の四人が脇山を市内のボスケ・ダ・サウーデの自宅に来客を装って訪問した。
当日、彼ら自身が脇山宅へ電話して「脇山さん、ご在宅でしょうか?」と訊いたという。
我が事ながら、素人臭く、想い出す度に呆れると日高は笑う。
その日四人は、コートは使用せず、背広だけ着てネクタイを締めていた。前回の経験からコートは必要なしと判断したのである。
六章で名前の出た(バストスの脇山農場に日本から呼び寄せられた)三藤悟入は、この頃はコチア産組に勤務していた。
この日、脇山宅を訪れ、家族と一緒に昼食をした。
同家の周辺は閑散としており、建物はポツポツと建っているていどだった。
大佐はこの少し前まで、空気が不穏だというので、別の場所に避難していた。そこから帰って間もなくであった。
普段と変わらぬ様子だった。もともと無口な人で、この日も会話らしい会話はなかった。
ただ近く予定している三藤の結婚式には出席すると言っていた。
三藤が同家を辞して数時間後、四人がこの家の前に立った。
大佐の孫の小さな女の子が、入り口の扉を開けた。
家人が彼らを客と勘違いし、サーラに招じ入れた。そこに数人居った子供たちが、隣室に追い立てられた。それでも閉じられた扉の側で、中の様子を知ろうとしていた。
が、暫くして突然、銃声が響いた。子供たちは悲鳴を上げて裏庭に逃げ出し、隣家に向かって走った。
この時の四人と脇山大佐のやりとりは、色々な記録に残っている。
中には日本の五・一五事件ばりの記述もある。四人が自決勧告状と短刀を差し出し、自決を勧めた。が、脇山が「その必要なし」と答え、逆に彼らの不心得を訓戒しようとした。ために「問答無用!」と引き金をひいた…とか、撃った直後に直立不動の姿勢をとり、最敬礼をしたとか…。
が、日高によると、違う。脇山は質素なメーザに向かって椅子に腰かけていた。四人はメーザのこちら側に立っていた。
短刀と一緒に自決勧告状を差し出すと、大佐は丁寧に読み始めた。落ち着いたものであった。
読み終ったところで、自決を勧めると、
「もう歳だし、そんな気力はないヨ」
と答えたので、北村が、
「じゃ、ごめん」
と言って撃った。
この「じゃ、ごめん」は、本稿を最初に連載したサンパウロ新聞で読んだ人を笑わせてしまったようである。
そのためか、日高は後に筆者に「昔の武士が人を斬るときのような語調で『では、御免』と断り、発砲した」と言い直している。
日高も引き金をひいた。軽く目礼、立ち去ろうとして、大佐の様子を見ると、
「こうして(片手を胸の辺りに持っていって)もがいていたので、こりゃ、いかん、苦しめてはいかんと、もう一発撃った」
という。
拳銃は片手で撃った。同志のブリキ屋本家正穂が、引き金を細工して引き易くしてくれてあった。
脇山の遺体の写真のコピーが現存するが、上半身に三発の弾痕があり、一発は左胸部の真ん中に穴を空けている。
山下は銃を持っていず、家人が騒ぎだしたときの制止役ということになっていた。
銃声が響いた時、台所では婦人たちがカフェーの支度をしており、その音が聞こえていた。
「脇山さんは、立派な人だった」
日高の言葉である。
四人は、その後、最寄りの警察に自首して出た。そこからアチコチたらい回しされた後、DOPSへ移された。
どうも、最初、警察の方が戸惑ったらしい。四人をどう扱ってよいか判らない様子だったという。この国では自首という行為は極めて少なかったためもあろう。(つづく)