ぶらじる俳壇=172=伊那宏撰
イタペセリカ・ダ・セーラ 山畑嵩
雨上りとんぼ群れ来て畑の中
白雲を浮かべる水面秋日和
山頂にとどまる入り日秋の暮
〔山頂と言っても名のある高山ではない。聖市近郊地帯の小高い〝おおかた名なき山〟の一つであろう。その山の頂きに、今夕日が入りかかろうとしている。対面の山裾の家や畑を名残り惜しむように照らしつつ、徐々に、徐々に沈んで行く。時間にして数分…。この一瞬にも等しい時の移ろいにたゆたう夕日を、作者は〈とどまる入り日〉と適格に描写した。秋の落日は目に優しく美しい。美しい夕日を見つめるその目には、まさに夕日が〈とどま〉っているように見えたのである。何気ない詠みながら、そこには〝真〟を見極めんとする作者の確かな目を感じ取ることができる〕
サンパウロ 山岡秋雄
午年の脚で蹴飛ばせ災いは
国の秋日本人たるホ句詠みぬ
〔〈日本人たる〉とは何ぞや?とふと問いかけられた気がした。先ずそれを解明しないとこの句の理解は覚束ない。移住者としてのアイディンティティ以上に、日本人であることのある種の誇りを問うているようである。「ホ句」は連歌の発句五七五が俳句として独立し、「ほく」と呼ばれるようになったと聞かされているが、それがなぜ「俳句」になり「ホ句」と表示するようになったかは不明。それはともかく、日本独自の詩歌を日本人たる者として詠む、といった自負心に誘発されて生れた一句なのであろう。〈国の秋〉はもちろんブラジルの秋。作者の〈ホ句〉に寄せる志の高さが伝わってくる〕
朝昼晩気候の変る残暑かな
サンパウロ 林とみ代
病む友の心如何にと憂ふ秋
移民等と連れ添ひ来たる富有柿
秋めきて果実の香り其処此処に
マナウス 大槻京子
マナウスや灼ける首すじ容赦なく
別れ来て心に燃ゆる紅の薔薇
移民妻涙にくるる誘蛾灯
サンパウロ 上村光代
ベランダに孫達と見る星の空
窓一杯開けて秋風誘ひけり
〔とても詩的な言葉の展開、と言うよりも詩そのもので、軽快な現代詩の一節を思い浮かべた。もちろん俳句としても申し分のない出来映えで、窓を開けた途端に、あたかもスンナリと滑り出てきたような素敵な一句である。厳しい暑さが続いた夏の日々を掻き分けるように吹き始めた秋風、さぞや爽涼感を満喫されたことであろうと同慶の至りである。この快適な一句に出会えた幸運を作者と共に喜びたい〕
アボカドに夕日当たりて光りけり
サンパウロ 串間いつえ
取残しの大きな胡瓜今日の秋
拙き句記してありぬ秋団扇
鳥の影目で追ふ猫や窓の秋
イタペセリカ・ダ・セーラ 山畑泰子
机下暗し秋の蚊ひそむ声ひそか
雲走る北から南秋の雨
バス停の草青きまま秋に入る
サンパウロ 石井かず枝
旅の宿遠く望めば紅葉山
今年またサンバ踏みしをなつかしむ
満開のアカシヤ並木二人連れ
麻州ファッチマ・ド・スール 那須千草
式典の読経の声や夏の空
慰霊碑の植樹請はれて桜植ゆ
故郷の満開告げる梅の花
初秋や女性総理に沸く母国
ミミズ鳴く散歩の犬の耳ピクリ
サンタ・フェ・ド・スール 富岡絹子
初秋や女性総理に沸く母国
ミミズ鳴く散歩の犬の耳ピクリ
カルナバル見る阿呆さえ卒業し
〔徳島県の「阿波踊り〕をベースにした句の流れで、〝踊る阿呆に〟が「見る阿呆」の前にくっ付く。そして「どうせ阿呆なら踊らにゃ損損…」とつながる阿波踊りと、サンバの曲に合わせて踊りまくるカルナバルを並べて、戯画的な面白みを狙った一句となっている。しかし、ブラジル在住のおおかたの日本人がそうであるように、作者も踊りに加わって熱狂的になることも、テレビの前に釘付けになることもない。本句ではそのようなことはもう卒業したとあっさり宣言。喧噪の渦を尻目に、マイペースの静かな日々を選ぶのが慣わしとなっている。視点を変えたひと味ちがうカルナバルの句である〕
日本 三宅昭子
撫子の力一杯秋謳歌
真白に土手埋め尽す花縮砂
絨毯を敷きつめし如国の秋
サンパウロ 大野宏江
朝市で見つけた日本富有柿
虫の声オーケストラが真似る音
カーニバル渦巻きの如舞ふ女王
モジ・ダス・クルーゼス 浅海喜世子
夏の雲太陽隠す午後一時
うちわ打つ名画を見つつ吾も打つ
日の盛り美味しい水の喉を越す
サンパウロ 太田映子
感謝の実ひとつ残せり木守柿
黄金の波がさわさわ稲揺れる
もの思ひ人恋しくて月の秋
虫時雨空気震わせ音合わせ(別稿より)
厨にはでんと構えるカボチアたち(〃)
サンパウロ 馬場園かね
秋雨の峠に光る観測所
薄日差す一瞬輝く秋の草
寄せ返す潮に力の充ちて秋
セザリオ・ランジェ 井上人栄
草虱まみれの野良着脱ぎ捨てて
セラードの闇綻びて流れ星
朝捥の胡瓜の棘や手に痛し
サンパウロ 伊藤きみ子
星が飛ぶクスコの空は満天で
芋の葉の露らが踊る七色に
七草や母の思ひ出星の花
ヴィトリア 大内和美
顔に汗あいさつ同じ秋暑し
秋暑し冷房強い会議室
秋暑し立ち寄る店はソルベッチ
サンパウロ 谷岡よう子
初孫にたえない笑顔涼やかに
夏風邪や咳込む辛さ長い夜
日本 川村君恵
ミモザの花遺影の夫にお供えし
桃の節句童達の笑い声
外出時どの衣装をと鏡まえ
趣味の会向かう足取り軽やかに
今日の事遺影の夫に語りかけ
コチア 森川玲子
蕎麦茹でし一人の昼餉いわし雲
枡酒の隅に塩置き新走り
天高く胴体太き放れ馬
〔ふと思ったのは、漢詩の一節「天高く馬肥ゆる候」。日本では「…馬肥ゆる秋」と言い換えて、広く人口に膾炙された言葉としてよく使われる成語である。夏草をたっぷり食べた馬は秋になって肥る――そんな意味の言葉だが、本句はそれをもじって勇壮な雰囲気を持たせて描いたところがミソ。放れ馬は山野に放牧された馬を言うが、ときには道端を彷徨う迷い馬などもそう呼ぶ。所有主が道辺の草を食べさせるためにわざと放置しておくこともある。道端の草を思う存分食べた馬は結構肥えており、〈胴体太き〉に肥えた馬のイメージが重なって、技巧を越えた面白さが生れた〕
稲妻の閃光走るカンナ畑
秋うららオンサ現はる別荘地
ベレン 鎌田ローザ
四旬節心静めて歩みけり
咳く度に飴頬張り夜長し
咳く度に母の寝床を確かめり
ベレン 諸富香代子
朝靄を分けて送るる老車にて
嬉々として信号青々雨季夜明け
咳続く吾子付き添いに今日も行く
パラゴミナス 竹下澄子
季雨激し約束の時迫りくる
断食と直向きな祈り四旬節
一途さの紅散りばめし花生姜
ベレン 渡辺悦子
老齢の聖歌歌いつ四旬節
気兼ねなく恵み生かされ四旬節
老齢とて聖歌は歌う四旬節
ベレン 岩永節子
気兼ねして咳する女(ひと)の優しさよ
甘き香は天使のものかクプアスー
春無くも芽吹く樹海の輝ける
〔〈春無くも〉は「春でなくても」と理解してもよいかと思う。四季の表示を義務付けられている俳句の在り方を鑑みるとき、四季のはっきりしない熱帯地での俳句作りの気苦労が思い起こされる。樹海は年中緑一色ながら、やはり樹木の芽吹きなくしてはあり得ないことから、この句のような表現も必然的に生れてくるのであろう。それ故に、〈芽吹く〉という春の季語が正確に季節を表しているとは言い難いが、さりとて無季俳句という訳ではない。春らしき季節感は充分にあるのだ。アマゾン俳句の特異性が打ち出された一例として、興味深く観賞させてもらった〕
読者文芸
サンパウロ新生吟社(2月)
課題「楽」
楽勝とほざく相手に練る奇策 今立帰
年老いて楽をしたいと働いた 大城戸節子
安楽死許可する国が増え始め 大塚弥生
楽々ときたわけでない移民道 甲賀さくら
人生は楽と苦労はつきものだ 比嘉洋子
苦も楽もあざなえる縄人生は 早川量通
下積みの苦も楽もある楽屋裏 青井万賀
月曜俳句会(2月)
端居して話題はペットのこととなり 畔柳道子
万緑の中に埋もれし我が生家 富岡絹子
太陽と真向かい生きる向日葵や 浅海喜世子
万緑のアマゾン河は大蛇めく 脇山千寿子
悔いなしと八十路の農夫夕端居 近藤佐代子
万緑や神の吐息は裾野まで 高木みよ子
端居する老爺に今も遠い夢 浅海護也
夏の夜は怪談咄由とせん 前田昌弘
夏の夜の女性総理の大話題 竹下澄子
師走不況夜の街並み店仕舞 渡辺悦子
今年より再起を誓う初詣 横地みのり
夏の夜や老うて孤独の親しさよ 伊那宏
モジダスクルーゼス俳句会(3月)
パイネイラ咲きて渡伯日ありありと 檀正子
秋雨に1人想ふは師の心 大石喜久江
秋蝶の横切る庭の日差し中 尾場瀬美鈴
寂れたる移民の村の綿木かな 松本留美子
人参の餌やり体験馬肥ゆ 田辺鳴海
秋灯や句友を悼む影法師 秋吉功








