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《記者コラム》すでに〝世界交代〟した日系社会=一見同じに見えてもポ語世界に

2022年7月26日

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日系社会における「日本語世界」と「ポ語世界」

 6月、20年ぶりぐらいに文協の「第55回コロニア芸能祭」を取材に行った。主催者はもちろん文協、司会は以前と同じ藤瀬圭子さん、パンフレットもほぼ同じ、イベント名称も会場も演目数、出場者数、飾りつけも同じような感じに見えた。
 「きっと内容も同じだろう」と漠然と心構えをして待っていたら、腰が抜けるぐらい驚いた。
 ステージでは、ブラジル人青年らが尺八を吹き、60過ぎの高齢アルゼンチン人男性が「愛燦々」を日本語で滔々と歌うところから始まったからだ。20年前から日本舞踊などの特定の分野で非日系人ががんばっていたが、それがあらゆるカテゴリーで一般化した印象を受けた。
 客席を見てみると、こちらも半分以上が非日系人だ。いつの間にこうなったのかとショックを受けた。もちろん、これは悪い意味で言っているのではない。
 20年前、ステージに立つのは選ばれた1世演者と厳しく指導された2世という印象だった。舞台裏では、怖い師匠が弟子たちの立ち振る舞いに目を光らせており、記者風情が気軽に声を掛けられない雰囲気があった。見に来るのもその友人や家族が中心だった。当時、非日系人は数えるほどしかいなかった。
 それが大きく入れ替わっていた。そして舞台裏の雰囲気もかつての怖さがなくなり、和気藹々とした感じを受けた。
 1世が登場する場面は以前から減っていたが、コロナ禍がそれを強引に後押しし、今はほぼなくなった。2世以降と非日系人の世界になったように見える。だが、同じ演目で同じ場所で同じような舞台をやっている。
 かつて芸能祭は「日本語世界」の行事だったが「ポルトガル語世界」に入れ替わった。日系社会には大きく分けて「日本語世界」と「ポ語世界」があると思う。この二つは近いようでいて遠く、遠いようでいて近い。
 演目が同じでも演者の世界が入れ替わるのは、「同じ個体でも、イモムシが蝶になるぐらいの大変化」だと思う。
 例えてみれば親子関係だ。親の世代の常識と子供の世代のそれは、同じ日本に住んでいても異なる。まして言葉や国籍が違えば、その違いは致命的なほど大きくなる。
 長い期間足を運ばなかった自分の怠慢を呪いつつ、「コロニアで起きているのは世代交代ではなく世界交代だ」という以前から痛感している現象が、芸能祭でも起きていたと思った。
 コラム子は昨年、ブラジル中央協会の機関誌『ブラジル特報』に、《今の日系活動の最前線は70~80歳代の2世だ。日系社会には百年祭以降、質的に根本的な変化が訪れた。
 言ってみれば、舞台の登場人物は根本的に入れ替わった。入れ替わっても団体は残り、同じ演目(伝統的イベント)を演じ続けている。だが演出手法や使う言語は変化した》と書いた。まさに芸能祭は、それを示す現場だった。

「コロニア」はとっくに消滅した

 かつて何度も「コロニア消滅論」が唱えられた。コラム子がパウリスタ新聞で働き始めた1992年「邦字紙はあと2、3年で潰れる」とよく言われた。当時、サンパウロ人文科学研究所で、夜な夜な酒を酌み交わしながら宮尾進所長らとその手の議論を交わしたことを覚えている。
 新聞をひっくり返してみると、1970年3月3日付のパウリスタ新聞にも《十年後のコロニア/消滅するが人は位置確保》という記事があった。当時文協で開催されていた「ブラジル研究ゼミ」の報告会で、日本の学者・山田睦男さんが「コロニアはあと10年(1980年頃)に消滅するが、日系子孫はブラジル社会に根をはって居場所を確保している」との研究成果を発表したという記事だった。
 正直な実感としては、確かに「コロニア」(日本語世界寄りの日系社会)はすでに消滅したと感じる。百年祭(2008年)の頃までは僅かにあった。
 だが今は「コムニダーデ」、地方では「カイカン」と言った方が通りが良い。この「コムニダーデ」はポ語世界寄りの日系社会のことだ。
 かつて圧倒的な存在だった日本語世界はどんどん高齢化して縮小した。1世から押さえつけられた存在だったポ語世界が、移民百周年前後からどんどん拡大し、日系社会の中軸になり、パンデミックがコロニアにとどめを刺した。世代交代、いや〝世界交代〟が完了した。
 わずかに日系社会の最前線に現役で残っている1世は、戦後移民の中でも最後発の世代だ。だが彼らも70代になった。
 先日、東京五輪が終わり、日本が高度経済成長後にオイルショックになったのを受けて飛行機でやってきた1974年渡伯の戦後移民と話した。「同期は30人いたけど残ったのは3人だけ。うち生き残っているのは2人」としみじみ語っていた。
 戦後移民5万人の大半は1953年からの10年間だ。それ以降は、チョボチョボに過ぎない。その最後の世代が70代を超えたということは、戦後移民の中心層は現在80~90代だ。
 コロナ禍が終わっても、彼らは活動の最前線には戻れない。自宅に押し込められた高齢戦後移民は体力も削がれた。

「日系文学」から日本語がなくなる時代へ

 10数年前、あるコロニアの文芸関係者から「日本語俳句がなくなってもいいじゃないですか。増田恆河さんが広めたポ語Haicai(俳諧)がブラジル人に広がっているから」と言いわれ、悲しい気持ちになったのを覚えている。
 1966年に始まった伝統の『コロニア文学』誌は、名前を変えて現在も『ブラジル日系文学』として続いている。だが日本語による新作本格小説は久しく見ていない。かつては小説も詩も迫力のある作品が掲載されていた。今はかろうじて俳句や随筆などが残っているだけ。本格的な熱量や技量を必要とする文芸に取り組む1世は、もうほぼいない。
 半分以上のページはポ語作品になっている。それが悪いことではないが、文学のベクトルはまったく違う方向を向いている。
 Haicaiという俳句の「形」が残ればいいという問題ではなく、文芸作品に大事なのは、そこに託されている想いだと思う。表現手法のレベルや想いの量は変わらなくても、方向性が変れば、文芸作品としては根本的な変化だ。
 ブラジルにおける日本語文学の意義は「異国で生涯を終える者の諦観」「移り住んだ者のサガ」「遠く離れたがゆえの祖国への熱い想い」「異文化の中で送る人生の様々な出来事」、いわば『郷愁性』が織込まれていることだと思う。そこに移民文学独自の深みが生まれる。
 Haicaiなどのポ語作品は主に、日本の文学形式の器を借りて、この地に生を受けた側から当地の折々の出来事を詠い込む発想、『郷土性』が中心だ。日本はエキゾチックな存在だ。だから内容的には大きな差がある。

郷愁性から郷土性へ

『コロニア文学』第4号(1967年5月)
『コロニア文学』第4号(1967年5月)

 そこで『コロニア文学』第4号(1967年5月)にあった酒井繁一氏の「コロニア短歌の郷愁性と郷土性」という論文を思い出した。
 曰く、移住地の短歌には郷愁を表現した作品が実に多いが、これは現実逃避の一面を持つものだから、どうしても現地から足が浮きやすく、そこを批判されやすい。郷愁の表現は価値が低いものではないが、類型的になりがちで読者に「またか」という感を与える。だからコロニア短歌で郷愁を詠ったものはたくさんあるが、その割に胸を打つものは少ないと酒井氏は論じる。
 短歌はもともと作者が身辺を歌い上げたものであるから、その出発点において郷土性を持っている。郷土性を持つことは、自分が生活する土地の民族、社会、政治などに密着性を持つことであり、風物もまた生活の中から把握されるものだ。
 例えば、地方の日系団体では運動会、敬老会、盆踊り、イチゴ祭り、花祭り、卵祭り、灯篭流しなど各イベントが行われている。その出発点においては「郷愁」の産物であったかもしれないが、別の面から見れば、新しい「郷土建設」の意思が潜んでいた。
 日本の民族史、なかでも農村史には例外なく、労働の中に娯楽が集団的に取り入れられている。労働をすると同時に、ともに村芝居や神楽を楽しむことが日本の村の生活だった。ブラジルのコロニアでは仲間と共に敬老会、盆踊り、俳句会をすることが楽しい生活の一部だった。そこにコロニアにおける「郷土性」があり、それは都市部の日系人にも継承されている。
 酒井氏は《我々が植民地に建設した郷土はこのように民族のしきたりを多分に持っているが、この郷土は間違いなくブラジルという国家の枠の中にあるものであるから、ブラジルと共に呼吸するものであることもまた当然で、そこに我々の短歌の特質がある》と指摘。
 さらに《コロニア短歌の将来を考えるとき、作者は第一に「異邦人」の立場から離れることが大事である。「生まれ故郷」はその人に染込んでいるのであるから、捨去ることは出来ないが、人間には「第二の故郷」もあり得る。我々にとってブラジルは第二の故郷である。我々はこの第二の故郷を「郷土」として作歌したい。生まれ故郷への郷愁はもとより可であるが、それを表現する場合、現実逃避の形はとらず、あくまで現地を起点として作歌したい》と論じている。
 1967年時点で、このような視点から論じていた酒井氏の慧眼には、恐れ入るしかない。

「ゆく河の流れは絶えずして元の水にあらず」

 《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし》(『方丈記』)
 1212年、鴨長明は「ゆく河の水の流れは絶える事がなく流れ続ける状態にあって、それでいて、それぞれのもともとの水ではない」と喝破した。今から810年前のことだ。
 演目(河)は同じでも、日本語世界からポルトガル語世界に(水が)移り変わったことが意味するのは、「郷愁性」から「郷土性」になったことかもしれない。我々1世はブラジルという大海に浮かぶ水泡、《淀みに浮かぶうたかた(泡)》なのかもしれない。
 日系社会に4世、5世、6世が増えていくにつれ、今までは「1世が直接伝える日本文化」だったが、これらからは「2世や3世が理解して解釈し直した日系文化」が後継世代に伝えられる。もしくは日本から直接にインターネットを通じて伝えられる。そこに1世からの伝承はない。
 3世、4世、5世というブラジルの郷土性を最初から身につけた世代からすれば、日本というイメージは、映画やマンガやアニメに代表される「独特な存在、興味深い東洋文化」にすでに変わった。
 だから、現在の「桜祭り」には郷愁性がなくなったと感じがする。かつて「日本に帰りたいけど帰れない。それならブラジルを第二の故郷にしよう。故郷には桜があるべきだ。ここに桜を植えて、花見をできるようにしよう」と、あちこちで1世が桜の苗を植えた。当時、花見をすることは郷愁を癒す行為そのものだった。
 ところが現在は「イッペーと同じ時期に咲く、日本移民が持ちこんだエキゾチックで美しい植物」程度の印象が強い。

ゆく川の流れ(参考写真、写真AC、ゆるるさん)
ゆく川の流れ(参考写真、写真AC、ゆるるさん)

 その反面、日系社会における9月のブラジル独立200周年記念行事は、かなり盛大になるのではないかという気がする。現在のコムニダーデの郷土性の起点はブラジルだからだ。
 案外、今でも邦字紙などを通じて日本側から見ている人には「日系社会は同じように続いている」風に見えているかもしれない。だが「継承されている振りが上手」の可能性も高い―と密かに感じている。間違いなく、すでにポルトガル語世界への移行は完了し、土台から入れ替わった。
 今後、コムニダーデ内で最も日系社会の大黒柱としてふさわしいのは、日本育ちの3世、4世ではないかと思う。日本で人格形成した彼らは、ブラジル育ちの世代よりも現在の日本を理解しているし、日本的な考え方に共感する能力が高い。
 彼らが集まって楽しく活動できるような場ができ、それが発展することを心から願いたい。(深)


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