ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(219)
十二日、サントーポリスでも、事件が起きた。
植民地の富永宅に三人の男が来て、同家の家族や居合わせた客三人と乱闘となった。家族と客は負傷、内、客の一人豊田重男が病院へ運ばれた後、死亡した。襲撃者は藤本明、名和昇。詳細不明。
この一件は単なる喧嘩とする説が、事件直後からあった。梅田清は「戦争の勝敗問題は関係なかったように思う」と言う。
森正秀によると、かなり違う。
「後で、富永の家族と会ったら『向こうが鉄砲をパンパン撃ってきたので、こちらも撃って追い返した』と話していた」
これであると、家の外から撃ってきたという風に感じられる。
また、森は「戦争の勝敗問題は関係あったと思う」ともいう。
サントーポリスは十一章で記したことだが、戦勝派ばかりだったという。とすると、勝敗問題が、どう関係していたかが、疑問になる。
こういう具合に、記録や証言によって状況が違う、あるいは戦争の勝敗問題が原因かどうか判らない事例が他地方でもある。
同じく七月十二日。
夜、ブラウーナの栄拓植民地の斎藤宅へ不審な二人の若い男が接近した。犬が吠え、雇人が駆け付けたため、姿を消した。
以上、ビリグイの近くでの事件や不審な動きは十、十一、十二日に集中している。事前に襲撃者間で連絡があったのかもしれない。
同時期、パウリスタ延長線でも、再び事件が相次いだ。
七月十六日、バストス。
夜八時過ぎ、山中弘が自宅で銃撃された。
胸部と右大腿部に被弾、重症。夫人も左足指に負傷。
筆者が山中の縁者から聞いた話では。――
夜九時頃、来客があって懇談していた時、表のドアが叩かれた。
山中が応対に出、夫人が続いた。ドアを開けると、男が立っていた。顔の部分は影になっていた。
男は両手に二丁の拳銃を持って構えていた。銃声が続けざまに響いた。
襲撃者は馬で立ち去った。誰であったかは遂に判らなかった。
この頃、バストスでは自警団が戦勝派に強硬な姿勢で対処、激怒させていた。
同月十八日(バストスから三〇㌔ほど北西の)イヌビアの薬局店主、敗戦派の浅野利実が店に入って来た若い男二人を客だと思い「どうぞ、おかけ下さい」と腰をかがめた時、拳銃で射たれた。
弾は急所を外れ、頬骨の負傷だけですんだ。襲撃者不明。
イヌビアは、当時、未だ鉄道も通じていず、原生林が残る開拓であった。
同時期、ノロエステ線カフェランヂア界隈で、二日の間に五件の事件が発生した。
カフェランヂアは三章で詳述した平野植民地のある町である。
ここは、小さな街の周辺にカフェー園が延々と広がっていた。
七月十七日。
雑貨商を営む楠庄平が、朝、店を開けた瞬間、外に待機していた五人の男に乱射された。即死。
やはり雑貨商の竹内豊次が襲われ、負傷。
いずれも詳細不明。
筆者の取材では、二人は敗戦派ということになっていたが、そのため狙われるような存在ではなかったという。
ために襲撃の動機は、戦争の勝敗問題を装った意趣返しではないか…という噂が流れた。
二人が営んでいた雑貨商というのはアルマゼン・デ・セッコス・イ・モリャードス、通称アルマゼンのことである。農業地帯には、どこにも在った。邦人の集団地には邦人のそれが在った。
雑貨商という訳が適切かどうか疑問だが、農業者に生活用品や営農資材を売っていた。相手の生産物を収穫時、代金の代わりに受け取るという条件で、商品を渡していた。受け取ると、それを転売した。
さらに、その生産物の加工にまで手を広げ、事業を発展させるヤリ手もいた。財を成す者が多く出た。
以下は、農業者側からの言い分だが、そのアルマゼンは、相手の足元をみて、狡い条件を押し付ける者もいた。無論、そんなことはしないアルマゼンもあった。しかし「百姓の利を盗んでいる」と、陰で言われるのが普通だった。
「豊かな暮らしをしているのは、雑貨商か戦時中に(利敵産業といわれた)繭や薄荷を生産した農業者だけだった」という声もある。
つまり襲撃者は、その利を盗まれた恨みを晴らした、というのである。
当時、カフェランヂアの第二平野植民地に住んで居た阿部牛太郎(10章で登場)は、こう語っている。
「楠と竹内は、何でも扱っていた。百姓の生産物を随分、安く買い叩いた…というので恨んでいる人もいた。
狙われていることに気付いた竹内の息子が、これは怪しいと思うと、戦勝派という名目で、片端から警察へ密告していた」(つづく)