《記者コラム》1世紀弱をブラジルで過ごした強者=文協白寿者表彰式で35人顕彰

「まだまだ元気に長生きする」
北原徳美さん(99歳、愛媛県出身)はすっくと背筋を伸ばしてマイクの前に立ち、「突然、白寿者代表とのご指名を受けてビックリしました。私どもまだまだ元気で長生きするつもりでございますので、これからもなお一層、皆さまのお世話になるかと思いますが、よろしくお願いします」としっかりした言葉遣いで述べ、客席に向かって頭を下げた。ブラジル日本文化福祉協会(文協、西尾ロベルト会長)が14日午前、白寿者表彰式をサンパウロ市の文協ビル大講堂で開催した際の一コマだ。
白寿は年齢が99歳の人を指す。表彰該当者は白寿以上の高齢者を含む35人で、うち本人出席が15人だった。会場には白寿者親族らを中心に約300人が集まり、晴れの日を盛大に祝った。
式典では西尾会長が挨拶に立ち、「子や場合によって孫の教育まで力を注ぎ、家族の結束を固め、現在の日系社会繁栄の基礎を作った皆さんには、この顕彰はまさにふさわしいもの。白寿者の皆さまに敬意と感謝を伝えたい」と祝辞を述べた。来賓の在サンパウロ総領事館・後藤昭彦領事も「日系社会の繁栄の基礎を作られた皆さま方に対しまして心より敬意を表します」と挨拶した。
続いで表彰状と記念品の伝達となり、西尾会長が表彰状の文言をポ語で、山下譲二評議員会長が日語で「白寿の長寿を心からお祝いします。この地に現在の日系社会の基盤を築いてくださいましたことに対し、心より感謝申し上げます」と読み上げてから渡した。最初の松岡美恵子さんに対し、西尾会長は生年月日を尋ね、「1926年」とハキハキとした返答が返ってくると、会場と共に驚いていた。

白寿者及びその代理出席者には表彰状とお祝いの品が渡された。その際、人によっては「ジッチャーン」「バッチャーン」と客席から大きな歓声が飛び、まるで美人コンテストの応援風景のようだった。
今回の白寿者の氏名は次の通り。成本秀、渡辺浩二、岩間祝子(しゅくこ)、アヤベ諒子、中家君子、青山加藤松子、曽我部清隆、竹田照子、北原徳美、アライ惠美子、山崎安子、平岡静子、大原愛子、小田月子、森口幸雄、山田和枝、増井淳二、建本ホルヘ博、川上花美、松岡美惠子、玉井伊藤須美子、嘉手川(かてかわ)垣花しげ子、オカモト キヨシ、コウチ フミコ、土手清美、ソネハラ キエ、弓場あき、林ゆきみ、渋谷伯統(しぶやひろと)、ナカソネ ヨシコ、菅好子(すがよしこ)、上原ミツ子、清水スガコ、田尻文男、吉安勝信。

「今までで一番嬉しかったことは?」
式典の後、大サロンに家族ごとに設けられた休憩スペースで、白寿者の皆さんは祝賀の喜びを噛み締めた。北原さんに「今までで一番嬉しかったことは?」と尋ねると、「家内と結婚したこと」と即答。京都で生まれて6歳の時に移住して現在97歳の妻・博子さんにも同じ質問をすると、にっこりと笑って「夫と結婚したこと」と答えて、顔を見合わせた。
「辛かったことは?」と尋ねても、二人とも「まあ、人並みに色々ありましたが、特には」とその先を言わなかった。通常はここぞとばかりに苦労話に花を咲かせることが多い。だが、北原夫妻の場合、苦労がない訳はないだろうが、あえて人様に言うつもりもないということのようだ。その控え目さ、物事のわきまえ具合に移民の年輪を感じさせた。
話しているうちに、2016年のふるさと巡りの際、博子さんから渡伯時の頃の話を聞いていたのを思い出した。博子さんは6歳で家族と渡伯し、最初はモジアナ線に入った。
彼女は「ブラジル人から原始林開拓を請け負って、森を切り開き、その代わりに3年間は米や棉を作って自分のものにして良いという契約。ブラジル人はそのあと牧草地にした。アラサツーバとかグアラサイーの近くとか。3年経ったら別の原始林開拓に移る。そんな生活を4、5回やりましたよ。小さい時からずっと原始林で生活していたから、学校なんて行ったことない。大きな植民地なら日本語学校もあるけど、私の場合は開拓地ですから、ただの山猿ですよ。日本語の夜学に1年間だけ通いましたけど」と謙遜していたのを思い出した。
そんなすごい幼年期を過ごして、「辛い経験は?」と尋ねられても、「特に」という返事になることから、改めて〝移民の人生〟が感じられる。きっと「周りがみんなそうだったから」と、格段自分だけが苦労したとは思わないのかもしれない。博子さんは「棉の消毒が大変なんです。背中にタンクを担いで重いし、消毒液が身体にも良くない。それで、町に出て洗濯屋になろうと兄と話し合ったんです」と言っていた。
5年ほどプロミッソンで洗濯屋をし、1952年、24歳で徳美さんと結婚し、最初はスザノ市でアルファッセ作りをしたが、思うようにいかず、以前やっていた洗濯屋をサンパウロ市でも始めたということだった。自分は朝から晩まで寝る間もなく働いて、子供7人に教育を与え、うち4人を医者にしたという。
洗濯屋はノロエステで戦前から日本人の職業となっており、それが日本人の大量出聖と共に一気に広まった。このような話の積み重ねで、移民史が作られてきたと実感する。
親に連れられて8歳で渡伯した北原さんは、在伯なんと91年。「エレベーターとかで同じ建物に住むブラジル人と一緒になった時とか、歳の話になると『あんたより僕のほうがブラジレイロだよ』と冗談でいうと、『その通りだね』と皆んな喜んでくれる」との当地らしい逸話を披露した。
北原さんに「ブラジルに来て良かったですか?」と問うと、「もちろんですよ」と穏やかな笑顔を浮かべた。(深)