《記者コラム》ブラジルに残る明治の尊皇思想=教育勅語奉唱するイタペセリカ=現地で聞く「なぜ今も続けるのか」

会館舞台の奥に鎮座する奉安殿
近隣日系住民が元旦に集まって「教育勅語」を奉唱しているのは、世界唯一かもしれない――。サンパウロ市近郊のイタペセリカ・ダ・セーラ(以下イタペセリカと略)文化体育協会(牧山ペドロ会長)のことだ。清和友の会「第4回ブラジル日系社会遺産遺跡巡り」の同行取材で、コラム子は3日に初めて立ち寄った。
会館の舞台上には奉安殿が作られ、菊のご紋が付いた扉を両開きにすると、奥には社とご真影と教育勅語が鎮座する。「奉安殿」とは、戦前の日本において天皇皇后両陛下の写真(ご真影)と教育勅語を納めていた建物、もしくは建物内の金庫状のスペースのことだ。もともとは運動場にあったが、後に会館内に移されたという。
同行した戦後移民の村上佳和さん(83歳、広島県出身)も「奉安殿を初めて見たよ」としみじみとつぶやいた。コラム子も同様だ。同文協の前身の日本人会と日本語学校は共に1935年設立と古く、来年は節目の創立90周年を迎える。
「教育勅語」は1890年に教育の指針として明治天皇の署名で発布された。祝祭日や学校の式典などで読み聞かされ、国民思想の統一が図られ、大東亜戦争終結まで日本人の精神的なバックボーンとなった。それがゆえに敗戦後の1948年6月、GHQから圧力がかかり、国会において教育勅語の失効についての決議がなされ、学校教育で用いなくなった。
だからコラム子のように戦後教育の中で育ってきた世代には「教育勅語」はなじみがなく、イタペセリカが戦前から継承する伝統に違和感というか、「明治の日本」の雰囲気を感じ、気になる存在だった。

〝鹿児島村〟と呼ばれた歴史

なぜ教育勅語の奉唱が現在まで続いているのか、その理由を知るべく、清和友の会のツアーに同行して、現地の長老、田畑稔さん(92歳、鹿児島県出身)に尋ねてみた。すると「ここは戦前から〝鹿児島村〟と呼ばれた場所で、学校を創立した頃は明治の気骨をもった日本移民が多く、祖国を信じる気持ちが強い人が多かった。だから戦後も勝ち組が多かったんです」と解説され、深く納得した。
これはコラム子独自の見方だが、移住初期(1908年当時)には明治新政府から虐められた旧幕府側藩領からの移民が多かった。だから当時、人種差別的な扱いを受けていた旧琉球国民(沖縄県)、新政府から国賊として責め立てられた会津藩(福島県)、元々は薩長土肥の一角だったが政権から追い出された土佐藩(高知県周辺)や、西南戦争(1877年)以後にたもとを分かった薩摩藩(鹿児島県周辺)人材が多い。
それら地域から渡った移民はブラジルに来ても、幕末以来の尊王思想をどこかに色濃く残していたと思う。その流れから、その地域の移民が多い地区では、勝ち組が多いという流れにつながってくる。
田畑さんは1934年、親に連れられて2歳でブラジル移住した。まさにイタペセリカ日本人会創立期だ。「今年でブラジル90年ですよ。イタペセリカに来て85年なので、一番古い方ですね」と笑う。「移民当初の困難な生活の中、37人の創立会員によって日本人会が創立し、日本語学校が開校しました。初代教師の篠原邦利先生は大変厳しい人で、そこから教育勅語と修身教育が始まりました」と振り返る。田畑さんも同校の卒業生だ。
同行は最初、ブラジル式小学校教程も教える学校だった。ブラジル教程の初代教師マリア・エレナ先生に関して「とても親日家で、戦争中も陰に日向に応援して下さり、(戦中は禁止されていた)日本語も勉強も自宅でなんとかできるようにしてくださっていました。そのおかげでイタペセリカ出身子弟には日本語が達者な人が多いのです」という。
コチア市までわずか30キロという場所なので、コチア産業組合のおひざ元であり、入植者の大半が組合員でジャガイモ生産者だった。「ここから後にイビウナ、ピエダーデ、ブラガンサなどの奥の方へ移動していったんです。ここに残った人は野菜や花卉栽培になりました」

教育勅語の中身はどんなもの?
とはいえ「教育勅語」に書かれている内容を知らずしては、批判も賞賛もできない。明治神宮サイト(https://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.php)にある「教育勅語の口語文訳」を以下、転載する。
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国民の皆さん、私たちの祖先は、国を建て初めた時から、道義道徳を大切にする、という大きな理想を掲げてきました。そして全国民が、国家と家庭のために心を合わせて力を尽くし、今日に至るまで美事な成果をあげてくることができたのは、わが日本のすぐれた国柄のおかげであり、またわが国の教育の基づくところも、ここにあるのだと思います。
国民の皆さん、あなたを生み育ててくださった両親に、「お父さんお母さん、ありがとう」と、感謝しましょう。兄弟のいる人は、「一緒にしっかりやろうよ」と、仲良く励ましあいましょう。縁あって結ばれた夫婦は、「二人で助けあっていこう」と、いつまでも協力しあいましょう。学校などで交わりをもつ友達とは、「お互い、わかってるよね」と、信じあえるようになりましょう。また、もし間違ったことを言ったり行った時は、すぐ「ごめんなさい、よく考えてみます」と自ら反省して、謙虚にやりなおしましょう。どんなことでも自分ひとりではできないのですから、いつも思いやりの心をもって「みんなにやさしくします」と、博愛の輪を広げましょう。誰でも自分の能力と人格を高めるために学業や鍛錬をするのですから、「進んで勉強し努力します」という意気込みで、知徳を磨きましょう。さらに、一人前の実力を養ったら、それを活かせる職業に就き、「喜んでお手伝いします」という気持ちで公=世のため人のため働きましょう。ふだんは国家の秩序を保つために必要な憲法や法律を尊重し、「約束は必ず守ります」と心に誓って、ルールに従いましょう。もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、力を尽くしましょう。
いま述べたようなことは、善良な日本国民として不可欠の心得であると共に、その実践に努めるならば、皆さんの祖先たちが昔から守り伝えてきた日本的な美徳を継承することにもなりましょう。
このような日本人の歩むべき道は、わが皇室の祖先たちが守り伝えてきた教訓とも同じなのです。かような皇室にとっても国民にとっても「いいもの」は、日本の伝統ですから、いつまでも「大事にしていきます」と心がけて、守り通しましょう。この伝統的な人の道は、昔も今も変わることのない、また海外でも十分通用する普遍的な真理にほかなりません。
そこで、私自身も、国民の皆さんと一緒に、これらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けるため、ここで皆さんに「まず、自分でやってみます」と明言することにより、その実践に努めて手本を示したいと思います。
明治二十三年(一八九〇)十月三十日
御名(御実名「睦仁」)・御璽(御印鑑「天皇御璽」)
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こうして読んでみると、意外に違和感は少ない。「戦争賛美、軍国主義のバックボーン的思想」というのとは少し違う気がする。むしろ、単なる国民道徳であり、危険思想とまで言えるものではない感じがする。

日本とはまったく別の文脈で読まれる教育勅語

牧山ペドロ会長(73歳、2世)の話は、2世側から見た日本人体験として興味深い。「父親はすごく厳しい人で、何かあればすぐゲンコツという人でした。それで僕は日本人嫌いになり、ブラジル社会へ溶け込まなければという脅迫観念があった。それで日系人が少ないリオで働き、友人や同僚はブラジル人ばかりだった。でもその後、サンパウロに戻り1世の女性と結婚したので、子供を育てる中で、やっぱり日本語を教えたいということになり、家内がタボン・ダ・セーラの日本語教師になり、その延長で現在イタペセリカ日本語学校の校長に。その縁で、僕もここの文協会長になりました」
つまり、元日本人嫌いの2世が、教育勅語を奉唱する文協の会長になった。「ボクら2世はその生い立ちから、複雑な感情を日本や日本人に対して持っている。でも3世以降はもっとシンプル、自然に日本のことが好きになれる。これからの日本語学校は言葉だけではなく、日本のことが好きになるように文化全体を教えた方がいい」と考えている。
また、田畑さんに単刀直入に「なぜ教育勅語の奉唱を続けているのか」と質問すると、「僕らも若い人に強制するつもりはないんです。辞めたければ辞めたらいい、と話し合ってもらった。ポルトガル語に翻訳して読んでもらったら、『いい内容だから続けよう』という話になりました。皆が分かるように来年からはポルトガル語でも読み上げる予定です」とのこと。
たしかに戦前のイタペセリカの日本移民には「明治の気骨」が強かったとしても、元日本人嫌いのペドロさんも含め、現在のブラジル生まれの3世、4世にその文脈はゼロだ。ブラジル人である彼らが「我々の伝統だし、内容も悪くないから続けよう」と判断したことは、日本の文脈とはまったく異なる一つの価値判断だろう。
「教育勅語は右翼思想」的な価値判断は日本国内では一つの見方ではあっても、まったく文脈が異なる外国のコミュニティに押し付けるのは的外れではないか。
連合国総司令部(GHQ)部局の一つ、大戦後に日本と朝鮮半島で連合国軍が行う教育・宗教・文化財関連の施策を担当した民間情報教育局(CIE、Civil Information and Education Section)の初代局長カーミット・リード・ダイク准将は、「徳目としては優れている。しかし『もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、力を尽くしましょう』という文言があるではないか。これが問題だ」と指摘したと言われる。
しかし、「国家の危機に際して、同胞を守るために国民が戦わない国は滅びる」ことは言うまでもない。大戦で米国は、日本国民に手を焼いたからこその過剰反応にも見える。そもそも米国自体が国防思想を賛美しており、敗戦国にだけ禁止するのは矛盾している。
GHQの圧力で日本では禁止された戦前の道徳思想が、地球の反対側の移民コミュニティで細々と生き残っている現象は、むしろ、グローバル移民社会の一事象としてとても興味深い。(深)